伊能忠敬 Tadataka Inou(1745年2月11日〈延享2年1月11日〉~1818年5月17日〈文化15年4月13日〉、測地学、日本)
初めて実測による日本の全地図を作ったのは、江戸時代末期に現在の千葉県九十九里町に生まれた伊能忠敬(いのう・ただたか)だった。
苦労の実測作業
当時の実測の方法は磁石で方位を確かめながら、「間(けん)縄」や「間ざお」といった物差しを使ったり、あるいは、つねに一定の歩幅で歩いたりして距離を測って行くもので、大変な地道な苦労の作業だったらしい。
55~71歳に10次にわたる各地測量
商家に婿入りし村の名主なども務めた伊能は50歳で隠居し、江戸に出て測量技術を学んだ。55歳の時に蝦夷(えぞ、北海道)の実地測量を行い、それを皮切りに、全国各地の実測を始めた。そして71歳でリタイアするまで、計10次にわたる各地での測量に関わった。
地図の精度に外国人も驚嘆
それらにより完成した地図の精度には、日本にやって来た外国人も驚いた。ある時には、イギリス人が幕府に日本沿岸を測量するよう強要してきたが、伊能が作った日本地図の写しを見せたところ大変驚き「もう、その必要はない」と言って、いそいそ退散したという。
ねらいは「子午線」1度の距離
ところで、伊能が日本各地で行った実測のそもそもの狙いは、地球の「子午線」の1度の距離を正確に測定することにあったと言われる。
「子午線」とは、地球の赤道に直交して南北の両極を通る「経線」のことだ。北は子 (ね)の方向、南は午 (うま)の方向なので「子午線」という。この1度の距離が分かって360倍すれば、地球の全周(360°)=地球の大きさ=が計算できる。
伊能の誤差は1000分の1
何回か行った実測を基に、伊能は子午線1度の距離を28里2分(110.75㎞)と割り出した。これは現在の実測値と約1000分の1の誤差しかなく、伊能の実測はかなり高精度だったことが分かる。
フランスも子午線の測量
伊能と同じころ、フランスでも子午線の測量が盛んに行われていた。1795年には法律で、パリを通る北極から赤道までの子午線の1000万分の1を「1メートル」と定めた。その基準となる最初の「メートル原器」も作られた。
〈メモ〉地球の経線1度を「1m」として決めたのならば、地球の経線1周分はちょうど4万㎞であるはず。ところが人工衛星などによる詳しい測量の結果、経線の長さは約4万9㎞、赤道の長さは約4万75㎞と分かり、地球は完全な球体ではなく、横に平べったい「扁平」の形をしていることが分かった。