野口 英世 Hideyo Noguchi
(1876〈明治9〉年~1928〈昭和3〉年、医学・細菌学、日本)
小説を読み「英世」に改名
「これは、まるでオレではないか」。野口清作(せいさく)は驚いた。
小説家、坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)が書いた『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』を知人から勧められ、読んでみたのだ。
この小説は、上野戦争で生き別れた兄妹の再会の話を中心に、当時の書生(学生)の生活や遊び、精神などを写実した全20話の作品だ。この第6話に出てくるのが「野々口精作」(ののぐち・せいさく)という22、3歳の医学生。この男は口が巧みで外面(そとづら)の良い偽善者で、人から借金を重ねては放蕩(ほうとう)を繰り返すという自堕落な性格だった。
小説は1885-6年に、野口がわずか9歳のころに書かれたフィクションで、登場人物の名前も性格も似ているといっても「それは……」と、坪内も後に語っているように「まったくの偶然」だった。ところが医学の道を歩み出した野口自身にも、小説の登場人物と同様に借金を繰り返しては放蕩に使ってしまう悪癖があったことから、自分の名前を変えることを思いついた。1898年夏に小説を読んですぐに帰省し、役場で戸籍名の変更の手続きを行って手に入れたのが「野口英世」の名前だった。
※戸籍名の変更がスムーズに行くように、野口(と小学校で恩師の小林栄)はある策を講じた。他の集落に住む同じ「清作」という名前の人に頼んで、自分の生家に近い別の野口家に養子に入ってもらい、第二の「野口清作」を作り上げた。そこで役場には「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と理由を主張することで、戸籍名を改名することに成功した。「英世」の名前は「‶世に英(すぐる)″ように」と、小林が名付けたといわれる。
幼児期に囲炉裏で大やけど
野口は福島県・猪苗代湖畔の村(現・猪苗代町)の貧農家の長男に生まれた(姉1人、後に弟1人)。1歳半のころに囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い、その後、傷はいえたものの手指が互いに癒(ゆ)着し、こん棒のように固まってしまった。小学校に入ると、左手のことで級友たちにからかわれたが、その悔しさをバネに学業に励み、さらに上の猪苗代高等小学校に進んだ。
猪苗代小で野口は、左手の障害への思いを作文に書いたところ、感銘を受けた級友や教頭の小林栄らが、野口の左手を治す手術費用を集める募金を行ってくれた。それを基に1892年10月に野口は、会津若松で開業していたアメリカ帰りの渡部鼎(わたなべ・かなえ)医師の下で左手の手術を受け、不自由ながらも左手の指が使えるようになった。これに感激した野口は医師を志すことにしたという。
医師への決意
1893年3月に猪苗代小を卒業した野口は、渡部医師が経営する医院に住み込み、書生として3年半にわたって働きながら医学の基礎や、英語や独仏語などを学んだ。そして1896年8月、野口が後々まで世話になる、渡部の友人の歯科医で「高山高等歯科医学院」(東京歯科大学の前身)の講師を務める血脇(ちわき)守之助(1870~1947年、千葉県我孫子市出身。後に日本歯科医師会会長、東京歯科大学の創立者の一人)と知り合った。
遊興に生活を浪費
野口は医師免許を取得するために、猪苗代小の恩師の小林たちから40円(現在の価格で約80万円)もの大金を借りて1896年9月に上京して下宿した。同10月に医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格したが、持っていた生活資金を遊興に使い果たし、下宿からの立ち退きを迫られてしまった。そこで翌年10月の後期試験に合格するまで、血脇の勤める「高山高等歯科医学院」の寄宿舎に入った。さらに血脇からは、後期試験に備えてドイツ語を学ぶための月謝や、予備校の「済生学舎」(日本医科大学の前身)に通うための学費も出してもらったという。
左手を再手術
また、後期試験では手や器具を用いて診察する「打診」が臨床の必須となるが、野口の左手の状態ではそれもできないため、これまた血脇の世話で、野口は帝国大学外科学の近藤次繁・助教授による左手の再手術を無償でしてもらった。おかげで野口は後期試験にも合格し、21歳で医師免許を取得した
晴れて医師となった野口だが、医院の開業資金もないため、医学研究の道を選んだ。これまた血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師となり、さらに順天堂医院(現・順天堂大学医学部附属病院)の助手として『順天堂医事研究会雑誌』の編集の仕事にも就いた。
1898年10月には順天堂医院長の伝手(つて)で、破傷風菌の純粋培養やその血清療法の開発などで世界的に有名な北里柴三郎(1853~1931年)が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に入所し、語学の能力を買われて外国図書係となった。
抜けない悪癖
野口はこの年の夏、読んだ小説に啓発されて金銭の浪費癖から脱して心機一転を図ろうと「英世」と改名した。ところが翌年5月に、伝染病研究所の蔵書が、野口経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚し、野口は研究所の勤務を外されたが、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補となり、内務省から要請のあった、清国でのペスト対策を担う国際予防委員会のメンバーに選ばれた。ところがまたも支度金96円を放蕩で使い果たし、この時も血脇に工面してもらい清国に渡航した。
清国の牛荘(現・遼寧省鞍山市)で野口は、一般的な病気の治療にもあたり、半年の任期終了後も国際衛生局やロシア衛生隊の要請を受けて残留した。しかし清国の社会情勢が悪化し1900年6月には「義和団の乱」が起きたため、野口は7月に日本へ帰国した。さらに福島県に帰郷し、恩師の小林に米国留学の資金の融通を願ったが「いつまでも、他人に頼ってはいけない」と叱責されたという。
野口は再び、神田・東京歯科医学院(元・高山高等歯科医学院)の講師に戻った。同1900年12月5日に箱根の温泉地で知り合った金持ちの姪で医師志望の女学生との婚約を取り付け、婚約持参金300円を手にした。ほかに野口は、恩師小林の夫人が内職で作った金や、旧友から借りた金など計500円もの大金を渡航費として準備したが、横浜の遊郭でほとんどを使い果たしてしまった。そのため、血脇が渡航直前に高利貸しから借りて用紙した300円が渡航費になったという。
知人の援助で米国へ
米国に滞在中も野口には、婚約者やその父親から結婚の催促の手紙が届いたが、そのたびに野口は適当にかわし続けていた。結局は、血脇が300円を立て替えて返済し、1905年に婚約を解消したというから、野口の金銭や女性に対するだらしなさには、ほとほと呆れるばかりだ。
その一方、研究面での野口は「実験マシーン」と他の研究者たちから揶揄(やゆ)されるほど熱心に、寝る間も惜しんで実験に取り組んだ。1900年12月末に渡米した野口は、伝染病研究所時代に北里の紹介で知己(ちき)を得たペンシルベニア大学医学部のサイモン・フレクスナー博士(1863~1946年)を訪ねて助手となり、毒蛇の研究に没頭した。
最初に行った、蛇毒によって引き起こされた溶血性変化に関する研究などが評価されると野口は、フレクスナー博士の指示で1903年10月にデンマークの国立血清学研究所・マッセン博士の下で細菌学を学んだ。翌年10月には再び米国に戻り、フレクスナー博士が初代所長を務めるロックフェラー医学研究所に入った。
梅毒や黄熱病の研究で注目
野口は1911年4月、同じ34歳のアメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚した。同年8月に「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界にその名を知られることとなった(後に、その成功は否定された)。さらに小児麻痺や狂犬病、黄熱病の病原体の研究にも力を注いだ。
とくに黄熱病について野口は、南米エクアドルでの発生調査を基に1918年に「病原体としての細菌を特定し、それを基にワクチンを開発した」と発表したが、その後「別な病気の病原体ではないか」との否定説も出てきた。
幻の‟野口ワクチン”
1924年7月にアフリカ西海岸のセネガルで黄熱病が発生したが、野口が指定の病原細菌は見つからず、野口ワクチンも効かないことが英仏の研究者から報告された。これを受けてロックフェラー医学研究所もナイジェリアのラゴスに黄熱病対策本部を設置し、調査したが英仏と同様な結果となった。
野口説に疑問が広がる中、1926年には南アフリカ出身の医学者マックス・タイラー(1899~1972年、黄熱ワクチンの開発で1951年ノーベル医学生理学賞を受賞)らが黄熱病ウイルスの単離に成功し、野口の病原細菌説を否定した。また1927年9月には、ラゴス本部で黄熱病研究を継続していた野口の部下が黄熱病で死去したことから、野口自らがアフリカの現地に乗り込んだ。
同年11月に野口は英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラに到着し、そこにある英国の研究施設を借りて現地調査を始めた。黄熱病が発生した村に血液採取に赴き、それを分析するなどして調査し、翌1928年3月までには黄熱病の病原体が「ろ過性微生物(ウイルス)」であると、それまでの自説を否定する結論を得ていたらしい。
野口は5月19日に米国への帰国の途に着く予定で研究や残務を整理していたが、5月11日に体調を崩してラゴスの病院に入院、5月21日に死去した。満51歳だった。死因については、アクラ施設の英国人研究者が野口の血液をサルに接種して調べ、黄熱病によることを確認した。また、その研究者も黄熱病に感染し同29日に死亡したという。
〈メモ〉 野口英世の伝記は、日本でも数多く出ている。ほとんどが「水呑百姓から手の障害を克服して世界的な医者になり、アフリカの人々を黄熱病から守るために研究中に絶命した人物」といった立志伝、偉人伝的なもので、中には野口が存命中に出たものもあって、本人は内容が理想化されて嫌がったとも言われる。その後1970年代からの伝記では、野口の業績が見直され、人間的な欠点も伝記に描かれるようになったという。
野口は千円札の肖像画になり、2004年11月1日から発行された。2024年からは紙幣の刷新により、新千円札の肖像画は北里柴三郎に変更される。ちなみに新一万円札は福沢諭吉から渋沢栄一に、新五千円札は樋口一葉から津田梅子にそれぞれ変わった。