細菌学

妻が贈った顕微鏡で ミクロ世界の探検家に

コッホ,ロベルト(1843~1910年、医師、細菌学、ドイツ)

 感染症の「結核」は紀元前1000年ころのミイラからも病気の痕跡が発見されるほど、人類との付き合いは古い。日本では明治初期まで肺結核を「労咳(ろうがい)」と呼び、1950年代までは結核が死亡原因の第1位だった。今でこそ(2018年厚労省統計では)、死因の順位は第30位だが、1年間に約1万5600人の患者が発生しうち2200人が死亡した。また世界保健機関(WHO)によると、世界では毎年約1000万人が結核にかかり、約140万人が死亡しているという。

 その結核菌を世界最初に発見し、1882年3月24日のベルリン生理学会・月例会議で発表したのが地元の細菌学者ロベルト・コッホだった。

 コッホは鉱山技師を父に13人兄弟の3番目としてドイツの山村に生まれた。大学で数学と物理学を学び、さらに医学部を出て地方の開業医となった。その後1870年に勃発した普仏(ふふつ)戦争で野戦病院に勤務し、さらに志願して現ポーランドのボルシュテイン地区の保健医官に任用された。

 その地で、細菌による感染症の研究と検査のための技術開発を重ねた。大きな成果が、ゼラチンを用いた固体の培地とそのための器具シャーレを考案し、細菌の純粋培養に成功したことだ。コッホは固体培地を、ジャガイモの切断面にカビが生えるのを見て考え出したという。

 固体培地の上では、細菌の菌種ごとに独立したコロニー(細胞塊)が作られる。それを1種類ずつ別の培地に移し替え、純粋培養した菌で動物実験などを行えば、病原菌を特定できる。コッホはこの手法で1876年に炭疽(たんそ)菌の純粋培養に成功し「炭疽」の病原体であることを証明した。その証明の指針となる「コッホの原則」も提唱した。

 コッホは1880年4月、首都ベルリンにある帝国衛生局の医官に任命された。有能な助手たちにも恵まれ、まもなく帝国衛生局紀要第1巻を発行し、その中で純粋培養のための手法や消毒、染色法などについての論文、炭疽菌の発見についての報告文を掲載した。さらに翌81年8月2~9日にコッホは、ロンドンで開催された第7回国際医学会に出席し、自ら開発した細菌学的技術を供覧した。多くの参加者らの大好評を博し、有名なルイ・パスツールも驚きの声を上げたという。

 同学会での重要な課題が結核だったことから、コッホは学会終了後ベルリンに戻り、さっそく8月18日に結核の研究を開始した。そして結核菌の発見を発表したのが、約7カ月後の1882年3月24日。さらにベルリン生理学会での講演後、3週間のうちに論文が雑誌にも掲載されたというから、当時の設備状況を考えると、短時間のうちに綿密な実験計画を立てて、多くの動物実験を行い証明したことは驚くべきことだったとも言われる。

 このような細菌学の黎明期に、もう一つ大きな出来事が起きていた。1881年にインドで発生したコレラ(第5次パンデミック)が、1883年にはエジプトまで広がっていたのだ。これに対してドイツ政府はコッホらの調査団を、フランス政府はルイ・パストゥール一派の調査団をそれぞれアレクサンドリアに派遣した。

 フランスの調査団は実験動物を用いてコレラ菌を分離しようとしたのに対し、コッホらはコレラ患者の腸管で増殖している菌を観察、分離培養することを試みた。結局、コッホらが患者の糞便からコレラの原因菌の存在を見出し、さらにインドのカルカッタでの調査でも同じ原因菌を糞便から発見した。コレラ以外で死んだ死者の腸管にはこの菌が存在しなかったことから、コッホはこれがコレラの原因菌であると1884年にドイツ政府に報告した。なおフランス側は成果なく終わったが、これはコレラ菌がヒト以外の動物では症状を起こさないためだったと、後の研究でわかった。

 これまで原因が不明で、治療法も分からず、医学にとってはお手上げ状態だったコレラだが、コッホが成功したコレラ菌の純粋培養によって、詳しくコレラが研究されるようになった。しかも、コレラが汚れた衣服や水によって広がることもコッホが明らかにし、伝染を防ぐ工夫もされるようになった。

 コッホは結核菌の発見などで1905にノーベル医学生理学を受賞した。破傷風の治療法を開発した北里柴三郎など、多くの世界的な細菌学者を育てたのも大きな業績だった。WHOを含めた世界の結核関連機関はコッホの歴史的な講演の記念日である3月24日を「世界結核デー」に定めている。

 そうしたコッホはそもそもが田舎の医師で、探検家を夢見ていたという。それをあきらめさせた妻が、彼をなぐさめようと顕微鏡を誕生日にプレゼントした。それがきっかけでコッホは細菌の世界にのめり込み、炭疽菌などの発見につながったという。果たして彼はミクロの世界の探検家になったのだ。