医学

破傷風菌「カメの子シャーレ」で培養成功 血清療法の確立も

北里 柴三郎(1853~1931年、細菌学・医学、日本)

 「医者と坊主には、なりたくない」。熊本県小国町の庄屋の家に生まれた北里柴三郎は、幼少のころに漢学や国学などを学び、こう決めていたが、長じて「近代日本医学の父」や「日本の細菌学の父」と称される高名な医学者になった。ましてや本人も、自分の肖像が紙幣(新千円札、2024年度発行)にまでなるなんて、思いもしなかったはずだ。

 北里を一躍有名にしたのが、ドイツの留学中に成し遂げた破傷風菌の純粋培養(1889年)と血清療法の確立(1890年)だ。

 北里は1871(明治4)年に、親の勧めもあって熊本の古城医学校に入学した。そこでオランダ人軍医マンスフェルトの指導を受け、さらに東京医学校(現・東京大学医学部)に進学した。卒業後は、予防医学の普及・研究を目指して内務省衛生局(厚生労働省の前身)に就職し、1886年1月からドイツに留学していた。

 師事したのがベルリン大学衛生研究所の所長で、炭疽(そ)菌や結核菌、コレラ菌などの発見で知られる細菌学研究の第一人者ロベルト・コッホだった。彼の下でさまざまな実験をこなしながら、取り組んだ研究テーマの一つが破傷風菌だった。

 破傷風は傷口から体内に病原菌が入り、全身の筋肉に激しい痛みやけいれんを伴って死ぬ病気だ。欧州では古来、戦争や農作業などでの負傷で破傷風にかかる人が絶えず、その治療と予防の確立が重要な課題だった。

 破傷風の病原菌については1884年に、ドイツの内科医アルトゥール・ニコライエル(1862~1924年)が発見していた。彼は土壌中から長細い形状の桿(かん)菌を他の雑菌とともに分離してラットとマウス、モルモットに接種し、破傷風の症状を発生させることに成功した。ところが、どうしても雑菌が混じるため、その桿菌だけを取り出して純粋培養することには、多くの研究者も挑戦し、ことごとく失敗していた。

 北里は、ベルリン陸軍病院で破傷風のために死んだ兵士の傷口の膿(うみ)の中に、多数の細菌に混じってニコライエルが発見したのと同じ菌が存在していることを顕微鏡で確認した。これをラットに接種すると確かに、兵士の場合と同様に接種部位が化膿して、24時間後に破傷風を発症し2~3日後に死んだ。

 その「ニコライエルの菌」を単離するために北里は、ラットの接種部位の膿を取り、平たいフタ付き容器「シャーレ」(別名ペトリ皿:コッホの弟子ユリウス・ペトリが発明)の寒天培地で培養してみた。しかし増殖したのは、膿の中に一緒に存在していた雑菌だけだった。次に膿を、立てた試験管内に作った高層培地で培養してみたら、その培地の表層で雑菌が増殖し、培地の深部で「ニコライエルの菌」が増殖していた。どうやら破傷風菌は、空気(酸素)が嫌いな性質をした嫌気性細菌らしい。

 さらに北里はひらめいた。「破傷風菌も、炭疽菌と同じく『芽胞』を作るのではないか」。というのも「ニコライエルの菌」も炭疽菌と同様に、自然界では土壌の中に常在しているからだ。「芽胞」とは細菌が、生存環境が悪くなったにときに形成する、耐久性の高い細胞構造だ。

 北里は高層培地に膿を植えて、試験管ごと70~80℃で45~60分加熱してから培養した。すると培地表層の雑菌は消えて、深部の「ニコライエルの菌」のみが増殖していた。熱に弱い雑菌は死滅して、破傷風菌だけが熱に強い「芽胞」となり生き残ったとみられる。

 これらの実験結果を踏まえて北里は、酸素のない嫌気状態で破傷風菌だけを培養するための容器「カメの子シャーレ」を製作した。これはシャーレのフタと本体を溶融して接着させたもので、扁平な形をしており、容器の前後にはガラス管がカメの頭と尾のように突き出ている。実験の手順は、容器の中の培地に菌を植えた後、このガラス管の一方から、亜鉛と希硫酸を反応させて発生させた水素ガスを導入し、反対側のガラス管から空気を追い出す。そして、ガラス管の両端を火炎で溶融して密封する──というものだったが、危険なことに、たびたび水素ガスに火がついて爆発したという。

 この「カメの子シャーレ」で破傷風菌を培養すると、1週間後には培地に破傷風菌のコロニー(集落)ができた。この菌をラットに注射したら、約20時間後にすべてのラットが破傷風の症状を起こし2、3日後に死んだ。

 こうした破傷風菌の純粋培養の成功を、北里は1889年4月にベルリンで開かれたドイツ外科学会で報告し、同年12月発行の『衛生学雑誌』に論文「破傷風バチルスについて」を発表した。北里の探求心は、それだけにとどまらない。「破傷風菌は傷口でしか検出できない。それなのに全身に症状が出るのは、病原菌が産出する化学的毒物が原因ではないか」と次の段階をにらみ、研究中であることも同学会で報告していた。

 破傷風菌の毒物を抽出するために、北里はまず、破傷風菌の培養液をろ過し、菌体や芽胞を取り除いた溶液を分離した。この溶液中に毒素が含まれているはずだと考えて、ウサギに注射したら、確かに破傷風の症状を起こして死んだ。

 次に、溶液中の毒素の濃度を極めて微量にしてウサギに注射し、それに耐えて生き残ったウサギに、さらに少しだけ毒素の濃度を高めた溶液を注射した。それにも耐えたウサギに、もう少し毒素濃度を高めた溶液を注射した。それでも生き残ったウサギに、さらに毒素濃度を高めた溶液を……という実験を繰り返すことで、破傷風に強いつウサギができた。

 こうして破傷風の免疫を獲得したウサギは、普通のウサギに対する致死量の20倍の毒素を投与しても元気だった。さらに免疫を獲得したウサギの血液をネズミの腹腔に注入し、24時間後に破傷風菌そのものを注射したが、そのネズミはピンピンしていた。こうした免疫力は、免疫獲得ウサギの血液の「血清」を使った方が、さらに強力な効果が得られることが分かったという。

 北里はウサギが獲得した免疫の、毒物を中和する物質を「抗毒素」と名付けた。これが今でいう「抗体」だ。そして「この抗毒素を含んだウサギの血清をヒトにも注射することで、破傷風を治療し予防することができるはずだ」と北里は確信し、この「血清療法」の研究を、同僚のエミール・ベーリング(1854~1917年)が取り組むジフテリア菌について応用した。その成果を、ベーリングとの連名で論文「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」にまとめ、1890年12月4日にドイツ週刊医学誌(Dtsch. Med. Wschr.)に発表した。

 血清療法確立の論文をきっかけに、北里には欧州各国の大学や研究所から招へいの声がかかったが、北里は「私の目的は日本の医療体制の改善と伝染病から国民を守ることだ」と、いずれも辞退した。

 北里は1891年10月に6年近くのベルリン留学を終えて翌92年5月に帰国したが、国内に就職先はなかった。そのため福沢諭吉(1835~1901年)が資金援助して「私立伝染病研究所」をつくり北里が初代所長となった。1894年6月に北里は、ペストの大流行が起きた香港に明治政府・内務省から調査派遣され、現地到着後わずか3日目にペスト菌を世界で初めて発見した。それによりネズミ駆除などの有効な消毒法や予防法が実施され、その後の日本での流行も阻止することができた。

 私立伝染病研究所は1899年に内務省所管の「国立伝染病研究所」となったが、1914年に政府は同研究所を文部省所管に移管し、東京大学付属とする方針を発表したため、北里が猛反発。私財を投じて設立したのが「北里研究所」だ。北里はその後、慶應義塾大学の初代医学部長や日本医師会の初代会長などを務めた。

〈メモ〉北里らが1890年に発表した「血清療法」の患者への応用はジフテリアの方が早く、1891年の終わりには最初の患者が治療を受けたという。さらに1894年には仏パスツール研究所のエミール・ルーが高い治療効果のある抗毒素を作り、ジフテリアの血清療法はさらに進展した。このためか、1901年の第1回ノーベル医学生理学賞は「血清療法のジフテリアへの適用」の業績でベーリングに授与された。

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1955年宮城県生まれ。名古屋大学農学部卒。【元】新聞(科学部)記者・MMJ編集長・JSTサイエンスポータル編集長・海上保安新聞編集長