華岡 青洲 Seishu Hanaoka(1760〈宝暦10〉年11月30日~1835〈天保6〉年11月21日、漢・蘭医学、日本)
紀州の町医者
米国で初めてエーテル吸入による全身麻酔で外科手術が行われたのは1842年。ところがその36年前に日本の江戸時代の医者が世界で初めて、開発した経口薬による全身麻酔で乳がんの摘出手術に成功していた。
その医者こそが、紀伊国那賀郡(現在の和歌山県紀の川市)の、祖父の代から続く医家の長男に生まれた華岡青洲だ。
父は大阪でオランダ流外科手術を学んだ外科医で、青洲も22歳のころ(1782年)に京都に出て、漢医や蘭医の下で東洋医学やオランダ流外科などを修行した。さらに最先端の医療器具や医学書を買い集めて25歳の時(1785年)に帰郷し、父を継いで開業した。
課題は手術の痛み
当時の日本の外科手術は、切開して膿(うみ)を出したり、傷を縫合したりする程度のものだった。時に大ケガをして傷口が大きい場合には、施術中の痛みを和らげるために焼酎(しょうちゅう)で酔わせたり、頭や顔面を殴打して気絶させたりしたというから、医者も患者も大変だ。
外科手術では、何よりも痛みの緩和、克服が課題だった。そこで青洲は麻酔薬の研究に取り組み、多くの書物を読むなどして着目したのが毒草「曼陀羅華(まんだらげ)」(チョウセンアサガオ、別名キチガイナスビ)の実だ。これは強い有毒成分を含む薬用植物で、中国の3世紀ごろの伝説的な医師「華陀(かだ)」が、この薬草を使って患者の神経を鈍らせて手術をしたといわれる。青洲が修行に行った京都でも、整骨医が複雑骨折の治療で鎮痛剤として使っていたのを思い出した。
麻酔薬「通仙散」
青洲は麻酔効果のある「草烏頭(そううず)」(トリカブト)にも注目し、この二つの薬草を中心にさらに数種類の薬草を組み合わせた。動物実験を重ねて薬効や効果時間などを細かに調べ、その結果からさらに薬草の配合を工夫した。その結果、弟子らによると、青洲は1796年ごろまでには、独自に処方した麻酔薬「通仙散」をある程度完成させていたらしい。
青洲が外科医として「患部を手術で摘出し、ぜひとも命を救いたい」と考えていたのが、古来絶えずに診療に来院する乳がんの患者たちだった。ところが当時の日本では女性の乳房は「急所」とされ、手術で乳房にメスを入れることは女性の命を絶つことになると考えられていた。しかしある日、胸を牛の角で突き裂かれた女性が診療所に運ばれてきて、青洲が傷を縫合し、その後完治した。このことから青洲は、乳房が急所だとするのは単なる迷信だと理解し、さらに意欲をもって麻酔薬「通仙散」の完成と乳がん手術の実現を目指した。
実母と妻が投薬試験に
その「通仙散」の完成のためには、最終的にはヒトでの投薬試験が必要だった。それを知って実母の於継(おつぎ)と妻の加恵が自ら、投薬試験の実験台となることを申し出たといわれる。ところが、その数回にわたる試験によって於継は死亡し、加恵も失明してしまったのだ。
そうした不幸を経て「通仙散」の安全な用法はようやく確立し、実際の手術に使う臨床応用の段階に入った。青洲の治療所に訪れた乳がん患者に麻酔薬や手術の方法などについて説明したが、最初の3人は怖がって手術を受けなかった。4人目の大和国宇智郡(現在の奈良県)の藍屋勘(かん)という60歳女性が全身麻酔による乳がんの摘出手術を了解した。「姉も同じ症状で亡くなっており、名医の手にかかれば死んでも本望」と、勘の方から手術を懇願してきたという。
摘出は成功も4カ月半後に再発死亡
勘は左の乳がんだったが、同時に脚気(かっけ)も患っていてその治療に20日ほど要した。すると今度はぜんそく気味となり、その治療にも約20日間かかった。そして文化元年10月13日(1804年11月14日)、勘に対する麻酔薬「通仙散」による全身麻酔下での乳がんの摘出手術が行われた。その世界初の全身麻酔による外科手術は成功したが、勘は手術から4カ月半後に死亡した。死因は乳がんの再発と推定されている。
全国から乳がん患者、入門希望者
この全身麻酔手術の成功を機に青洲の名は全国に知れ渡り、青洲の診察を受けて手術を希望する乳がん患者の登録名簿は156人にもなった。地元の近畿はもとより北は陸奥(青森県)、南は筑前(福岡県)に及んだ。また青洲は全国から集まってきた門下生の育成にも力を注ぎ、診療所に医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を併設して、生涯に1000人を超える門下生を育てたといわれる。
青洲は「通仙散」による全身麻酔は、乳がんの手術のほかに膀胱(ぼうこう)結石や脱疽(だつそ)、痔、腫瘍摘出などの手術にも行った。さらに、オランダ式の縫合術やアルコールによる消毒なども行った。
「麻酔の日」
なお麻酔薬「通仙散」の調合法や手術法などは一切が門外不出とされたが、その門弟が「通仙散」による麻酔法を全国に広めた。「通仙散」による全身麻酔は、外国からクロロホルムやエーテルによる麻酔法が導入される明治中期以降まで行われていたという。
青洲の功績は戦後世界的にも認められ、米国シカゴにある国際外科学会外科歴史博物館でも展示紹介されている。彼が初めて麻酔手術に成功した旧暦10月13日は、日本麻酔科学会が「麻酔の日」に制定している。
〈メモ〉青洲の乳がん手術成績:麻酔医で医学史にも詳しい弘前大学名誉教授の松木明知さん(1939年1月8日~)によると、青洲が乳がん手術を行った患者のうち、術後の生存期間が判明している143人ついてみると最短は8日、最長は41年で、平均生存期間は約3年7カ月だった。当時の乳がんは外見からでしか分からない進行がんが主体だったので、乳がん手術としてはかなり高い成績だった。
乳がん手術は同時期のヨーロッパでも行われていたが治療成績は芳しくなく、19世紀後半を代表するドイツの外科医テオドール・ビルロート(1829~1894年、胃がん切除手術に初めて成功)でさえ、手術後の再発率は80%を超え、3年生存率は4~7%程度だったという。
海外の麻酔薬:笑気ガス(亜酸化窒素)は、1772年に英国人化学者ジョゼフ・プリーストリーが発見し、1795年にハンフリー・デービーがその麻酔作用を証明した。そのデービーの論文(1800年)をヒントに米国人医師で薬学者のクロウフォード・ウィリアムソン・ロング(1815~1878年)が1842年3月30日に、初めてのエーテルを用いた全身麻酔でジョージア州の患者の首の腫瘍を除去する手術に成功した。ロングは続けて同じ患者から2つ目の腫瘍を除去したほか、その後の切断手術や出産にも麻酔剤としてエーテルを使った。
なお笑気麻酔については1845年に米国人歯科医師が公開実験に失敗した。現在では強い鎮痛効果は認められるが、単独で人を完全に麻酔することはできず、麻酔補助薬として用いられることもあるという。