天文学

太陽中心説(地動説)を提唱 天文常識が180度大転回  

コペルニクス,ニコラウス(1473~1543年、天文学、ポーランド)

 私たちの地球や火星、木星などの惑星は太陽を中心に公転している。今でこそ世の中の常識だが、17世紀までの西洋では「地球こそが宇宙の中心であって、天にある太陽や他の星などが地球の周囲を動いている」といった「地球中心説」(天動説)が常識だった。

 これに対し「地球が太陽を回り、動いている」と、常識が180度転回するほどの「太陽中心説」(地動説)を提唱したのが、ポーランドの司祭で医者、天文学者のニコラウス・コペルニクスだった。

 ※ちなみに「天動説」「地動説」の言い方は西洋にはない。日本人がコペルニクスを国内に紹介する際に用いたもので、西洋ではそれぞれ「地球中心説」「太陽中心説」と呼ばれている。

 コペルニクスは司祭になるために国内で最古の名門クラクフ大学に進み、天文学を学んだが、すぐに天体の観測結果が「天動説」に合わないことに気付いた。

 「こんなことでは、星を観測して自分の船の位置を知りながら航海する『天文航法』があてにならない」。さらに当時、教会で使っていた暦が実際と約10日ずれていることも、気になるところだった。

 イタリアのボローニャ大学やパドヴァ大学に幾度か留学したコペルニクスは、古代ギリシアの天文学者アリスタルコス(紀元前310年~紀元前230年頃)が、すでに「太陽中心説」の考えをもっていたことを知った。それは科学的に裏付けられた説ではなかったが、コペルニクスには共鳴するものがあったという。

 コペルニクスはポーランドの故郷に帰国した1508年ごろから、昼間は僧侶の仕事、夜間は寺院の展望台で熱心に天体観測を続けながら「地動説」の知識を徐々に積み上げた。コペルニクスの説や考え方は、友人などを通じて人々や教会の一部の関係者などにも広まるようになった。

 そして1539年ごろには、コペルニクスよりも41歳若いドイツのヴィッテンベルク大学の天文学の教授ゲオルク・レティクスがコペルニクスを訪ね、地動説の話を直接聞いて感銘したことから、コペルニクスに願い出て唯一の弟子となった。レティクスはコペルニクスに出版を強く勧め、彼もようやく納得して自説の集大成に取り組み始めた。ところが1542年11月にコペルニクスは脳卒中で倒れ、半身不随となった。仕上がった校正刷りは、コペルニクスの死の当日(1543年5月24日)に彼のもとに届いたという。

 こうしてコペルニクスの死後に、全6巻からなる著書『天球の回転について』が出版されたが、教会は「天動説」の立場であり、大多数の天文学者たちもコペルニクスの説には反対だった。そうした中、再び「地動説」を支持した一人が、コペルニクスが没してから21年後に生まれ、人類で初めて望遠鏡で天体を観測したガリレオ・ガリレイだった。宗教裁判にかけられたガリレイは「それでも地球は回っている」と、あくまでも主張を曲げなかった。

〈メモ)コペルニクスは死後どこに埋葬されたか不明だった。ポーランドのシュチェチン大学などのチームが2005年夏、コペルニクスの主任地であったフロムボルクの大聖堂で遺骨を発見した。遺骨はコペルニクス肖像画と頭蓋骨が非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していた。2008年11月、シュチェチン大学とスウェーデンのウプサラ大学が共同でこの遺骨と、ウプサラ大学で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる本に挟まっていた2本の毛髪とのDNA鑑定を行った。その結果、両者のDNAが一致し、遺骨がコペルニクスのものと認定された。