地震学

豪州天文台で知った関東大地震 予想しても予知できず

大森 房吉(1868~1923年、地震学・地球物理学、日本)

 1923(大正12)年9月1日の正午近く、日本の地震学の権威者で東京大学の大森房吉教授は、オーストラリア・シドニーのリバービュー天文台にいた。現地で開かれる汎太平洋学術会議に出席するために日本代表団の副団長として、病気を押して訪れていたのだ。

 天文台の施設を案内され、さらに台長から「これがドイツから購入した地震計です」と促されて観測室に入ったと同時に、その地震計の針が大きくふれ出した。

 「大地震だ」。直感した大森教授は、すぐさま地震のデータから震源地を探って、まさに腰を抜かさんばかりに驚いた。

「日本の関東!」。その地震は1万数千㌔も離れた日本の東京付近で発生したのだ。後に死者10万人以上を数える関東大地震(大震災)だった。

 大森教授はオーストラリアに向かう船中、同行者らに訊かれて「日本での次の大地震はここだ」と、東京湾のあたりを地図で示していたという。しかし大森教授は、そのことを大地震の予想として世間一般に発表することには慎重だった。

 実は関東大地震の18年ほど前に、同じ大学研究室の助教授が「大地震が今後50年以内に起きて、東京は大打撃を受ける。死者は10~20万人にのぼる」との予想を基に防災対策を訴える論文を雑誌に発表した。それが新聞でセンセーショナルに扱われたことから、世間が大騒ぎとなったことがある。

 これに対して大森教授は震災対策の必要性については理解を示しつつも、新聞や講演会で「大地震の発生に根拠なし」と助教授を激しく非難し、騒動を静めるのに努めたのだ。

 実際に関東大地震が起きて、結果的に助教授の「予想」は的中したが、しかし、それが地震を「予知」したことにはならない。「いつ、どこで、どれほどの地震が起きるのか」の3要素がそろって初めて科学的な「予知」になるからだ。

 大森教授は関東大地震の発生後すぐに帰国の途についたが、脳腫瘍の病状が悪化して帰国後は直ちに入院し1カ月後に死去した。

 大森教授は連続記録可能な高感度の「水平振り子式地震計」を開発し、1899年には地震の初期微動の継続時間から震源までの距離を求める「大森公式」を考案した。業績は地震学への貢献だけではない。1910年の北海道・有珠山の噴火の際には、試作した地震計を町に設置して世界で初めて「火山性微動」を記録し、火山学に新しい知見をもたらした。さらに、地震予知に比べて「大噴火の予知はひどく困難な問題ではない」として、噴火予知のための火山観測所の設置も提言した。