植物学

小学中退ながら東大講師・博士号 妻に感謝のスエコザサ

牧野 富太郎(1862~1957年、植物学、日本)

 4月24日は「植物学の日」。「日本の植物学の父」と称される牧野富太郎博士の誕生日、旧暦の文久2年4月24日(西暦では1862年5月22日)にちなんだ記念日だ。牧野博士は、小学校中退ながらも東京大学の助手から講師となり、文化勲章をも受章した植物学一筋の人生。その陰には貧困生活にもめげず13人の子供(うち6人成人)を産み育てた妻、寿衛(すえ)子さんの大きな支えがあった。

 牧野博士(以下、富太郎)は、高知県佐川町の裕福な造り酒屋の一人息子に生まれたが、6歳までに父、母、祖父を相次いで亡くし、祖母に育てられた。寺子屋や私塾で学んだ後、郷校「名教館(めいこうかん)」に入学し、英語やオランダ語、物理学、植物学など、西洋の諸学科を学んだ。12歳の時に学制改革で名教館は小学校になりそのまま入学したが、授業が物足りなく、2年で退学してしまった。しかし大好きな植物採集だけは続け、植物の話がでてくる英語の本などを読んで勉強していたという。

 やがて富太郎は、翻訳家でもある高知師範学校の教師を通して西洋の植物分類学に触れ、さらに江戸時代の本草学の本を見て、いつかは自分も植物図誌を発刊したいと思うようになった。そうした学問欲はどんどん深まり、植物学の書籍や顕微鏡を買うために、19歳のときに初めて上京した。文部省博物局で最新の植物学を学び、植物園などを見学した。

 そして22歳のとき(1884年)に「どうしても植物を研究したい」と祖母を説得して、再び上京した。さっそく東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)の植物学教室を訪ね、自ら編集した「土佐植物目録」を見せながら、植物学への思いを語った。教授は富太郎の情熱と観察力や描画力に驚き、教室への出入りと文献や資料を見ることを許した。

 富太郎は植物研究の拠点を東京に移し、多くの場所にも私費で植物採集に出かけるようになった。また1887年(25歳)には、教室内外の同人らと『植物学雑誌』を創刊し、巻頭を富太郎の論文が飾った。翌年11月には、自ら石版印刷技術を習得して日本初の植物図鑑『日本植物志図篇』を自費刊行した。1889年(27歳)には、高知県で発見した新種「ヤマトグサ」に大久保三郎と連名で学名(Theligonum japonica Okubo et Makino)をつけて同誌に発表した。ヤマトグサは日本の固有種で、日本人のみによって学名が記載され、日本の学術雑誌に発表された最初の植物だ。

 ※日本人によって学名が付けられた植物は、1888年に伊藤篤太郎がロシアの植物学者マキシモヴィッチと連名で記載した「トガクシソウ」(学名:Ranzania japonica (T.It? ex Maxim.) T.It?)が最初だ。その意味でヤマトグサは2番目、日本人のみの学名としては最初だ。

 さらに富太郎は1890年(28歳)に東京・江戸川河川敷の用水池で、水生の食虫植物を発見し「ムジナモ」の和名を付けた。南北アメリカを除くヨーロッパ、アジア、アフリカ各地に隔離分布する植物の日本での発見で、これまで知られなかった花の解剖図も添えた学術論文を同年11月発行の『植物学雑誌』に発表した。翌1891年にはヨーロッパの文献にも紹介されるなどして、牧野の名は世界的にも知られるようになった。

 ところが、こうした大学の職員でもない富太郎の、大学の権威を無視した活躍ぶりが大学教授の反発を買い、植物学教室への出入りを禁じられてしまった。

 3年前に10歳下の小沢寿衛子さんと結婚し、一家を構えていた富太郎は、故郷を出る時から家業を祖母に任せ、さらに祖母亡き後は番頭に任せて、自分の生活費や多額の出版費用などを送ってもらっていた。しかしその家業もついに行き詰まって廃業を余儀なくされ、富太郎が故郷で整理作業に追われていた。そのとき、たまたま植物学教室の教授が罷免されて助教授が後任の教授となり、富太郎を呼び戻してくれた。

 富太郎は31歳のとき(1893年)に東京帝国大学の助手に正規採用された。月俸15円、公費で全国各地に(時には台湾にも)植物採集に出張できるようになった。ところが富太郎は生来の金銭感覚ゼロの人で、研究に必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入した。植物採取の際はいつも身支度を整え、列車や旅館も最高のものを利用した。そのため助手の給料だけでは毎月の食費にも足りず、さらに子供も毎年のように次々生まれたので多額の借金をつくり、ついには高利貸しにも手を出して借金は2000円余りに膨れてしまった。このときは知人たちや郷土出身の財閥、岩崎家の手助けもあって、借金は一時解消されたが、またすぐに借金は増殖し、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともあったという。

 貧乏な家庭生活とは裏腹に、植物研究にまい進していた富太郎だったが、48歳のとき(1910年)に大学助手の職を解かれてしまった。17年前に大学に戻してくれた教授が富太郎に嫉妬して富太郎の出版を妨害し、さらに助手解任を策謀したものだった。これに対して学内では解任反対運動が起き、富太郎は2年後の50歳から大学講師として復帰し、月俸も30円に上がった。

 こうした中、家庭の方は妻の寿衛子さんが何とか支えた。債権者が来ても口実をつけて追っ払ったほか、債権者の方が粘って家にいるときは、玄関先に赤旗を掲げて、夫に知らせた。また少しでも生活のためにと、渋谷に一軒家を借りて「待合」(料亭)を始めたこともあった。一時繁盛したが、しばらくして悪い客がついたのでやめてしまった。ところがこれについて「大学の先生が待合を経営するのはけしからん」と言いふらす大学関係者もいた。富太郎は大学の理学部長に家庭の経済状況を率直に話し「待合」は妻の独自経営で大学に迷惑をかけていないことを説明すると、理学部長は十分に理解し同情してくれたという。

 富太郎の一家は1926年、東京都練馬区東大泉に居を構えた。富太郎が採集した植物標本が火災で焼失しないようにと、関東大震災(1923年)を目の当たりにした寿衛子さんの「待合」を売って得た資金を基に、田舎の雑木林に小さな一軒家を建てた。「ゆくゆくは標本館を中心にした植物園の建設を」というのが寿衛子さんの夢だったという。

 富太郎は翌1927年(65歳)に理学博士の学位を取得した。「我が家の貧乏は学問のための貧乏なので、恥じることはない」と子供たちに言い聞かせ、貧困を乗り切ってきた寿衛子さんだったが、翌1928年2月に病気のために亡くなった。享年55歳。牧野博士は寿衛子さんの長年の苦労に感謝し、前年発見した新種の笹に「スエコザサ」と名付けた。

〈メモ〉牧野富太郎博士は1939年(77歳)まで27年間大学の講師を務めた。最終的な月俸は75円だった。生涯で約40万点の植物標本を収集し、日本にある約6,000種の植物のうち約2500種以上に名前を付けた。日本の植物学研究の基礎となる『牧野日本植物図鑑』(1940年)など、多くの図誌を刊行した。1951年にノーベル物理学賞の湯川秀樹、日本画家の横山大観、小説家の谷崎潤一郎と共に第1回文化功労者に選ばれた。1957年1月18日、94歳で死去。没後、文化勲章を受章した。