原子物理学

窒素を酸素・水素に人類初の核変換 中性子の存在も予測

ラザフォード,アーネスト(1871~1937年、原子物理学、ニュージーランド)

 南半球の島国ニュージーランドで農家の12兄弟の4番目に生まれ、後に原子物理学界のリーダーとなり「原子物理学の父」とも称されるのがアーネスト・ラザフォードだ。

 ラザフォードは奨学金を得て名門高校ネルソン・カレッジからニュージーランド大学カンタベリー・カレッジに進み、数学と数理物理学を学んだ。その後一時、高校の臨時教師となり、1894年に再び同大学に復学して地質学と物理学を専攻した。さらに翌年の24歳の時に、英国までの渡航費を借金でまかない、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所に留学した。

 その留学は、英国の万博記念奨学金によりニュージーランドから2年に1人ずつ派遣する制度を利用したものだが、その選抜試験で実は、ラザフォードは2番目の成績だった。幸運にも1番目の学生が家の都合で辞退したため、ラザフォードにチャンスが巡って来たのだった。

 1895年にキャベンディッシュ研究所の研究員となったラザフォードは、所長のJ・J・トムソン教授の指導の下で、気体の電気伝導の研究を始めた。渡英当初は「植民地出身」という負い目もあったが、次第にそれを跳ね返し、自分で実験装置を作るなどして熱心に研究に取り組んだ。そして1898年にウランから2種類の放射線が出ていることを発見し、それぞれにα(アルファ)線、β(ベータ)線と名付けた。

 27歳でカナダのモギル大学の物理学教授となったラザフォードは、英国から来た6歳下の化学者フレデリック・ソディ(1877~1956年)を助手にラジウム、トリウム、アクチニウムの研究に取り組んだ。そして1902年に、放射性元素はアルファ線やベータ線を出しながら別の元素に変換すること(放射性元素変換説)を発見した。これは「元素は不変である」とする当時の常識を根底からくつがえすもので、これによりラザフォードは1908年にノーベル化学賞を受賞した。

 1907年に英国マンチェスター・ヴィクトリア大学の物理学教授となったラザフォードは、ハンス・ガイガー(1882~1945年)とアーネスト・マースデン(1889~1970年)を助手に行った実験(1909年)で、薄い金箔にアルファ線を当てるとほとんどが素通りするのに、一部は跳ね返されてしまうことに気が付いた。このことから「原子の真ん中に重い核があるのに違いない」と1911年に発表したのが、原子核の周囲を電子が太陽系の惑星のように回っているような原子モデルだ。

 ラザフォードは48歳のとき(1919年)に再びケンブリッジ大学に迎えられ、キャべンディッシュ実験物理学講座教授兼キャべンディッシュ研究所長に就任した。

 さらに同年、彼は精力的に実験に取り組み、窒素ガスにアルファ線を当てて、酸素と水素を作り出すことに成功した。これは人類が初めて人工的に元素を変換させた歴史的な実験だった。この結果からラザフォードは「原子核を構成する粒子には陽子のほかに、陽子とほぼ同じ質量の中性の粒子が存在する」と、翌年のロンドン王立協会の講演会で予想した。その予測した「中性子」は研究所弟子のジェームズ・チャドウィック(1891~1974年)が1932年に発見し、1935年のノーベル物理学賞を受賞した。

 いつも精力的に研究に取り組んだラザフォード。「さぁ!どんどん研究を進めよう」が口癖だったという。