量子力学

くりこみ理論でノーベル賞 落語好きで気さくな科学者

朝永振一郎(1906~1979年、量子力学、日本)

 1995年のノーベル平和賞は、核兵器や戦争の廃絶を訴えて活動してきた科学者たちの国際的な「パグウォッシュ会議」と、その会長ジョセフ・ロートブラット博士に贈られた。

 この会議は、世界の科学者に呼び掛けた「ラッセル=アインシュタイン宣言」(1955年)をきっかけに、2年後の1957年7月にカナダの小さな村パグウォッシュで最初に開かれ、1995年7月に第45回会議が広島市で開催された。

 第1回から参加したのが湯川秀樹博士(1949年ノーベル物理学賞受賞)と、1965年に日本人として2人目のノーベル物理学賞に輝いた朝永振一郎博士だ。その朝永博士は、電子などの荷電粒子の運動や振る舞いを計算上から説明する「くりこみ理論」を1947年に提唱し、量子電磁力学の発展に寄与したことが高く評価された。

 東京生まれの朝永博士は、小さい頃は体が弱く「泣き虫でよくめそめそと泣いていた」という。哲学者だった父の転勤で京都の小学校に入り、中学、高校時代は冗談やいたずらが好きな、普通の少年だった。ある時は、家でおやつに出された棒チョコレートをクレヨンにすり替え、これを親戚が知らないで食べてしまったというから大変だ。

 そうした朝永博士の中学時代(旧制中学5年生・16歳)の1922年11月、世界的な天才科学者で前年のノーベル物理学賞を受賞したアルベルト・アインシュタイン博士が来日。神戸港から京都、東京、仙台、日光、大阪、奈良、福岡などの各地に1カ月あまり滞在し、日本中がアインシュタイン博士の人柄や研究に関心熱が高まった。これがきっかけで朝永少年も相対性理論や4次元の世界などに興味を持ち、その後、京都帝国大学理学部で物理学を学び、研究の道に進んだ。湯川博士とは中学から高校、帝国大学まで同期だった。

 朝永博士は1932年から、理化学研究所(東京・巣鴨)の仁科芳雄博士の招きで仁科研究室の研究員となった。仁科博士は、量子力学の創始者であるデンマーク・コペンハーゲン大学のニールス・ボーア博士(1922年ノーベル物理学賞)の元に6年近く研究留学していた。そこでの研究経験そのままに、仁科研究室では先生も若い研究員も区別なく、誰もが自由かつ達に、当時ホットな量子論などについて討論した。

 理研での研究はまさに「科学者の自由な薬園」だった。そんな朝永博士のエピソード。1937年11月にそのボーア博士が来日し、ある日、研究所の屋上で昼食会が開かれた。朝永博士は突然一人で高い塔に登り始め、みんなを見下ろして「オ-イ」と盛んに手を振った。何のことか? ボーア博士も、あ然としたという。

 ふだんから落語好きで、性格も気さくな朝永博士はある日、ノーベル賞の受賞のお祝いに肖像画を贈ろうと言いだした弟子たちに「額縁よりも風呂に入りたい」とユーモアでかわし、やんわり断ったという。

 ところが、栄えあるノーベル賞の授賞式(12月10日)の前に、朝永博士は自宅の風呂場ですべってろっ骨を折り、出席できなくなってしまった。

 落語の世界ならば「せっかくの晴れ舞台がオジャンとなり、まったくシャレにもならない話」だが、そんな朝永博士のために12月10日の当日は在東京のスウェーデン大使館で授賞式が行われ、恒例の受賞講演は、翌1965年5月6日にストックホルム工科大学で行われた。