朝永 振一郎 Shinichiro Tomonaga(1906〈明治39〉年3月31日~1979〈昭和54〉年7月8日)、量子力学、日本)
「パグウォッシュ会議」
1995年のノーベル平和賞は、核兵器や戦争の廃絶を訴えて活動してきた科学者たちの国際的な「パグウォッシュ会議」と、その会長ジョセフ・ロートブラット博士に贈られた。
この会議は、世界の科学者に呼び掛けた「ラッセル=アインシュタイン宣言」(1955年)をきっかけに、2年後の1957年7月にカナダの小さな村パグウォッシュで最初に開かれ、1995年7月に第45回会議が広島市で開催された。
第1回から湯川秀樹博士と参加
第1回から参加したのが湯川秀樹博士(1949年ノーベル物理学賞受賞)と、1965年に日本人として2人目のノーベル物理学賞に輝いた朝永振一郎博士だ。
その朝永博士は、電子などの荷電粒子の運動や振る舞いを計算上から説明する「くりこみ理論」を1947年に提唱し、量子電磁力学の発展に寄与したことが高く評価された。
少年期から冗談やいたずら好き
東京生まれの朝永博士は、小さい頃は体が弱く「泣き虫でよくめそめそと泣いていた」という。哲学者だった父の転勤で京都の小学校に入り、中学、高校時代は冗談やいたずらが好きな、普通の少年だった。ある時は、家でおやつに出された棒チョコレートをクレヨンにすり替え、これを親戚が知らないで食べてしまったというから大変だ。
来日したアインシュタイン博士に魅了
そうした朝永博士の中学時代(旧制中学5年生・16歳)の1922年11月、世界的な天才科学者で、前年のノーベル物理学賞を受賞したアルベルト・アインシュタイン博士が来日。神戸港から京都、東京、仙台、日光、大阪、奈良、福岡など各地で講演や授業など行いながら1カ月あまり滞在し、日本全国がアインシュタイン博士の人柄やその研究に対する関心熱が高まった。
これがきっかけで朝永少年も相対性理論や4次元の世界などに興味を持ち、その後、京都帝国大学理学部で物理学を学び、研究の道に進んだ。湯川博士とは中学から高校、帝国大学まで同期だった。
仁科博士の招きで理所へ
朝永博士は1932年から、理化学研究所(東京・巣鴨)の仁科芳雄博士の招きで仁科研究室の研究員となった。仁科博士は、量子力学の創始者であるデンマーク・コペンハーゲン大学のニールス・ボーア博士(1922年ノーベル物理学賞)の元に6年近く研究留学していた。
その‟コペンハーゲン学派”での研究経験そのままに、仁科研究室では先生も若い研究員も区別なく、誰もが自由かつ達に、当時ホットな量子論などについて討論した。
高い塔に登って「オーイ!」
そんな理研での朝永博士のエピソード。
1937年11月にそのボーア博士が来日し、ある日、研究所の屋上で昼食会が開かれた。
朝永博士は突然一人で高い塔に登り始め、みんなを見下ろして「オ-イ」と盛んに手を振った。「何のことか?」とボーア博士も、みんなもあ然としたという。
「額縁よりも風呂に入りたい」
ふだんから落語好きで、性格も気さくな朝永博士はある日、ノーベル賞の受賞のお祝いに肖像画を贈ろうと言いだした弟子たちに「額縁よりも風呂に入りたい」とユーモアでかわし、やんわり断ったという。
風呂場で骨折、ノーベル賞授賞式は欠席に
ところが、栄えあるノーベル賞の授賞式(12月10日)の前に、朝永博士は自宅の風呂場ですべってろっ骨を折り、出席できなくなってしまった。落語の世界ならば、せっかくの晴れ舞台がオジャンとなり、まったくシャレにもならない話だ。
そんな朝永博士のために12月10日の当日は在東京のスウェーデン大使館で授賞式が行われ、恒例の受賞者講演は、翌1965年5月6日にストックホルム工科大学で行われた。