理論物理学

原子の構造・放射モデルでノーベル賞 量子力学の確立へ

ボーア,ニールス(1885~1962年、理論物理学、デンマーク)

 高度約420㎞に浮かぶ国際宇宙ステーション(ISS)は、赤道に対して51.6度の傾きを保ちながら約90分の周期で地球を回っている。ISSの飛跡を世界地図(メルカトル図法)に降ろすと、S字の正弦波が、地球の自転によって1周22.5度ずつ西にずれながら地上軌道(グランドトレース)を描く。地球規模では粒子のようなISSが、波動性をも示すことの一例だ。

 これに似た原子核と電子の関係を、太陽と惑星に見立てた原子構造モデルを考案し、1913年に発表したのがデンマークの理論物理学者ニールス・ボーアだった。ボーアは新しい量子論の考え方を基に、電子は原子核の周囲にある何本かの安定した軌道上を運動し、より高い軌道から低い軌道に移った時に光を放つことなどを示した。その後、水素やヘリウムの発光スペクトルの波長の実験や水銀のイオン化エネルギーに関する実験の結果などがボーアのモデル理論で説明できることが分かり、1922年にボーアはノーベル物理学賞を受賞した。

 ボーアは、父と同じ研究者の道を選び1903年にコペンハーゲン大学に入学した。1911年に博士号を取得すると英国に留学し、ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所(ジョゼフ・ジョン・トムソン所長)さらにマンチェスター・ヴィクトリア大学に移り、アーネスト・ラザフォード教授(1908年ノーベル化学賞)の元で原子構造を研究した。翌年コペンハーゲン大学に戻り、ラザフォードのモデルの欠点をマックス・プランクの量子仮説を用いて補い、確立したのがボーアの原子構造モデルだった。

 ボーアは1916 年(31歳)にコペンハーゲン大学の理論物理学教授に就任し、1921年には理論物理学研究所を同大学に開設した。ノーベル賞受賞後は諸外国から多くの留学生を歓迎し、自らが所長として自由な学風のコペンハーゲン学派を形成した。この中に1923年4月から5年半在留した仁科芳雄(1890~1951年)もいた。その仁科の招きで、ボーアは1937年(昭和12年)4月来日している。

 ところが量子力学の確立を目指すボーアらに対し、同じ理論物理学者のアインシュタインは、電子の存在を確率論的な手法でしか予想できない量子力学を受け入れず、両者間で大論争が起きた。その量子力学についてアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と揶揄(やゆ)したのに対し、ボーアは「神が何をされるか、そなたが言うことではない」と反論したという。

 そうした有意義な科学論争を中断させたのが、ナチス・ドイツの台頭とそれに伴い1939年に始まった第二次世界大戦だった。ヨーロッパの多国がドイツの支配下となり、ユダヤ人迫害が増大した。ボーアの母もユダヤ人だったが、デンマークが中立国の立場を守っていたので、ボーア自身が、ヨーロッパから脱出するユダヤ人や外国に亡命する科学者らの窓口として、1943年にデンマークがドイツに占領されるギリギリまで活動した。その後ボーア一家は英国に逃れた。

 そのドイツがデンマークを占領したとき、ボーアの理論物理学研究所ではドイツ人2人からノーベル物理学賞の金メダルを預かっていた。ドイツでは金の国外持ち出しは重罪にあたる。そのためボーアは、研究所にいたハンガリー人化学者ゲオルク・ド・ヘヴェシー(1943年ノーベル化学賞)に指示して、金メダルを王水(塩酸と硝酸の混合液)に溶かして実験室内に隠した。戦後、ヘヴェシーは溶液から金を精製し、ノーベル財団に持参して金メダルを再生してもらったという。

 英国に渡ったボーアは、米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知った。その開発の論拠となったのが、ボーアが1939年に米物理学会で発表した低速中性子によるウラン235の核分裂反応の理論だった。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、米英の大統領や首相らに直接面会して、ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を訴えたが、結局ボーアの願いは叶わなかった。ボーアは戦後、デンマークに戻ってからも、原子力の平和利用と国際管理の必要性を訴え続けた。