アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein(1879年3月14日~1955年4月18日、理論物理学、ドイツ)
20世紀最高の物理学者
宇宙論や原子物理学などに大きな影響を及ぼした「特殊・一般相対性理論」で有名なドイツの物理学者アルベルト・アインシュタインは「20世紀最高の物理学者」と言われた。
その偉業とは裏腹に「子供のころは劣等生だった」というから、学校の成績はあまり気にしない方がよいのかも知れない。
9歳で「ピタゴラスの定理」を証明
幼いころの彼は言葉を覚えるのも遅く、5歳ごろにやっと話せるようになっても、ぽつりぽつりとした単語ばかりで、両親を心配させた。小学校に入っても、彼にとって先生は「ただ怖いばかりの存在」で、勉強にも実が入らない。8歳から通った上級の学校(ギムナジウム)では数学や科学に興味をもった。特に数学は大得意で9歳で「ピタゴラスの定理」を自力で証明し、12歳のときには独学で微分・積分を習得していたという。
数学、物理学以外は不得意
しかしその他の教科はまったくの不得意で、校風も軍国主義的で規則づくめだったことから反発し、1894年12月に途中で学校を辞めてしまった。翌95年にはスイスのチューリヒ連邦工科大学を受験したが、総合点数が足らずに不合格となった。しかし数学と物理学が最高点ランクだったことから、学長の裁量で、もう1年ギムナジウムに通って中等教育終了試験にパスすることを条件に、入学資格を与えられた。
大学の授業は不出席
アインシュタインは1896年10月、同大学(4年制)に入学した。しかし入学後はほとんど授業に出ず、もっぱら一流の物理学者の論文ばかり読んでいた。物理学の実験でも教授の指示は聞かず、自分の好きなことばかりしていた。そのため(大学物理学部長と不仲だったこともあって)大学卒業後はすぐに就職できず、数学と物理学の教員資格試験には合格していたので。1年間、代理教員や家庭教師などをして生活をつないだ。
26歳の特許庁職員が「特殊相対性理論」発表
1902年にアインシュタインは、友人の父親の口利きで、スイス特許庁の審査官の職を得た。そこでも彼は仕事の暇な時間を利用し、物理学の理論に没頭した。そうして1905年に、26歳の彼が発表したのが「特殊相対性理論」だ。
唯一の理解者マックス・プランク
ところが、無名の特許局員が提唱したこの従来の時間や空間の考え方を一変させる理論は、だれにも理解されなかった。だが量子論の創始者マックス・プランク(1858~1947年、ドイツ、1918年ノーベル物理学賞)が支持したことで、次第に物理学界に認められるようになったという。
「一般相対性理論」の論文(1915‐6年)
やがてアインシュタインはチューリヒ大学の助教授、プラハ大学の教授を経て、1912年に母校チューリヒ連邦工科大学の教授となった。第一次世界大戦(1914年~1918年)中の1915‐6年に彼は、特殊相対性理論から発展させた「一般相対性理論」に関する論文を次々と発表した。
皆既日食で「重力レンズ効果」確認
「一般相対性理論」で予測された現象の一つに「重力レンズ効果」がある。これは、恒星や銀河などが発する光が、途中の天体などの重力によって曲げられて進む現象だ。その現象が、ケンブリッジ天文台が1919年5月29日の皆既日食で行った観測で、太陽の近くを通る恒星の光が太陽の重力で曲げられたことによって確認され、一躍、アインシュタインとその理論が世界的に有名になった。(理論の実証は1922年豪州での皆既日食の観測)
招待旅行で日本へ
評判となった彼は招待を受けて、世界各国を訪問する。1922年秋には出版社の招待で、夫婦で日本にも訪れた。10月8日にフランス南部のマルセイユを日本郵船の客船「北野丸」で出港、11月17日に神戸港に到着。その後、日本に43日間滞在し、全国10か所で講演で講演や大学授業を行い、観光なども楽しんだ。
船上に届いたノーベル賞の電報
日本への途中、香港から上海に航海中の11月10日、スウェーデン科学アカデミーは、第一次世界大戦のため持ち越しとなっていた前年(1921年度)ノーベル物理学賞をアインシュタインに授与することを発表し、彼も船上でこの電報を受けた。このニュースは日本にも知らされ、夫妻を待ち受ける日本全国の歓迎ムードはさらに高まったという。
対象は「光電効果」の研究
しかし、アインシュタインのノーベル物理学賞の対象は「相対性理論」ではなく、1905年に発表した「光電効果」の研究に対してだった。これにはアインシュタインも不満を漏らしたというが、それほど「相対性理論」は当時のノーベル委員会の委員たちにも難解な理論だったらしい。
「相対性理論」は人類に貢献したか?
これには別な見方もある。第一次世界大戦後のドイツでは反ユダヤ主義が高まり、そもそもがユダヤ人であるアインシュタインの唱えた「相対性理論」に対して、ドイツ国内のノーベル賞受賞者らから「ノーベル賞授与の本来の目的である『人類のために最大の貢献をした人』かどうか疑問だ」との批判があったという。これをかわすためにノーベル委員会が「光電効果」を受賞理由に挙げたとも言われる。
その後、ドイツではヒトラー率いるナチス党が台頭しユダヤ人迫害が強まったため、アインシュタインは1932年にドイツを離れてベルギーや英国、スイスに滞在。1935年に米国に移住した。
〈メモ〉①アインシュタインのノーベル賞には、もう一つエピソードがある。1919年にアインシュタインと前妻との約5年にわたる協議が決着し離婚が成立した。その条件として、お金がなくて慰謝料を払えないアインシュタインは「ノーベル賞の賞金を前妻に譲る」と提示していたのだ。その時点では、すでに本人はノーベル賞の受賞を確信していたようだ。
②アインシュタインは1955年4月11日、核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した。その4日後、心臓付近の痛みのためプリンストン病院に入院し、4月18日午前1時すぎ腹部動脈瘤破裂により死去した。満76歳。遺体は焼却され灰は近くのデラウェア川に流された。
しかしアインシュタインの脳だけは、遺体の検死を行った解剖医が、遺族の承諾を得ずに自分の研究室に持ち帰った。検死によると、アインシュタインの脳は1230グラムで、一般成人男性の脳(1350~1500グラム)よりもやや軽かったという。その解剖医はその脳をホルマリン漬けにして、約240枚の切片スライドを作製した。一部は知人に配布し、ほとんどが行方不明だが、残ったスライドはフィラデルフィアのムター博物館に収蔵されているという。