電気工学

学生の卒論実験きっかけに 世界普及の高感度アンテナ発明

八木 秀次(1886~1976年、電気工学、日本)

 太平洋戦争に突入し侵略範囲を広げた日本軍は、1942(昭和17)年1月に英国の植民地シンガポールを攻略した。そこでは英国軍が使っていた対空レーダーとともに、焼却炉に焼け残っていた1冊の技術ノートを手に入れた。

 技術ノートには、レーダーの性能や取り扱い方などが細かに書かれている。欧米国軍に比べて、はるかにレーダーの開発が遅れていた日本軍の技術陣はこのノートを見て喜んだ。

 ところが内容をどう訳しても、意味不明な同じ単語がいたるところに出てくる。

「ヤジ、あるいはヤギ(YAGI)とは何のことだ?」

 ノートの持ち主で、英国人捕虜のニューマン伍長に尋問したら、彼はキョトンとした表情で言った。

「あなた方は本当に知らないのか。YAGIとは、レーダーのアンテナを発明した日本人の名前だ」

「えっ!」と、日本の軍関係者は絶句した。

 その「日本人」とは当時、大阪帝国大学(現大阪大学)の理学部長をしていた八木秀次(ひでつぐ)のことだ。

 八木は1886(明治19)年、大阪市で生まれた。旧制三高(現京大・岡山大)から東京帝国大学(現東京大学)工科大学電気工学科を卒業し、仙台高等工業学校の講師、教授となった。東北帝国大学(現東北大学)理科大学の本多光太郎教授、東京帝大理科大学の長岡半太郎教授の推薦で1913(大正2)年から3年間独英米に留学した。1919年に仙台高等工業学校は東北帝大に昇格し、八木も同年から1931(昭和6)年まで東北帝大工学部の教授を務めた。

 その八木教授が1925年に講師の宇田新太郎とともに発明したのが画期的な高感度・高指向性短波アンテナ「八木・宇田(Yagi-Uda)アンテナ」で、現在でも世界中でテレビやFM放送の受信用アンテナ、アマチュア無線や業務無線の送受信などに利用されている。テレビならば、住宅やビルなどの屋上でよく見られるVHF、UHF受信アンテナがそれだ。

 発明のきっかけは1924年3月に、八木の指導で宇田の同級生の学生が行っていた卒業実験だった。与えたテーマが「電磁波が来る中にさまざまな障害物を置いたときに、どんなものがどれだけ電磁波の受信をじゃまするか」で、そのことを棒状アンテナに流れる高周波電流を測定して調べることだった。

 学生はさっそく単巻線コイルなどを自作し、実験に取り組んでいたある日のこと。「先生、とんでもないことが起きました」と、八木の部屋に飛び込んできた。「電磁波の中に何も置いていないのに高周波電流が流れ、時に約1000倍にも増えました」という。

 結局、学生は答えを得られないまま卒業したが、八木は助手に手伝わせて追試実験を行い、珍現象の再現を試みた。その結果、コイルの代わりに1本の金属棒を電磁波の中に置いても高周波電流が生じ、金属棒の長さによっては高周波電流の大きさが増幅したり、減衰したりすることが分かった。八木はそれを、学生の卒業論文に付け加える形で電気学会誌に報告した(1925年9月)。

 さらに八木は、大学院に上がり講師となった宇田とともに実験を重ねた。そして「短めの金属棒は電磁波を強めて、長めの金属棒は逆に弱めること」や「アンテナの前方に短めの金属棒を置き、後方に長めの金属棒を置くと、アンテナに流れる高周波電流が二重に増すこと」などをつかんだ。こうした指向性アンテナの基本原理について、八木は1925年12月に特許を申請し、翌年、日本と英国で取得した。また、各地各所での実証実験にも成功し、その実験結果についても連名で論文を国内外で発表したほか、国際会議での講演や博覧会でも展示でも紹介するなどして、たちまち世界的なホットニュースとなった。

 というのも、当時のアンテナは支柱に1本の金属棒を水平に備えたT字型が主流で、全方向から電波を受け取るため、特定の方向に強い電波を放射したり、特定方向からの電波を受信したりすることが難しかったからだ。

 それが「八木・宇田アンテナ」の登場で、欧米(とくに軍部)では、その指向性に注目してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にも装備した。

 ところが日本の軍部は「敵前にして電波を出すことは、暗闇に提灯(ちょうちん)を灯すごとく、自分の位置を知らせることになる」として、八木・宇田アンテナの応用には見向きもしなかったという。

 その結果が、本稿の最初のエピソードだった。さらに米軍によって1945年8月に広島、長崎に落とされた原子爆弾にも、特定の高度で爆発させるために、八木・宇田アンテナを用いた受信・レーダー機能が使われた。

 八木は大阪帝国大学(現大阪大学)の初代総長になった長岡に請われて1932年から、同大に新設の理学部物理学科の教授を兼任した(1936年から専任)。翌1933年に東北帝国大学で日本数学物理学会年会が開かれ、そこで知り合ったのが量子力学の新鋭、京都帝国大学理学部の講師をしている湯川秀樹だった。本人からの依頼もあって、八木はさっそく湯川を大阪帝大理学部講師に迎えた。

「論文を1本も書いたことがない」という湯川だったが、八木は彼の独創性を重んじて待っていた。ところが、一向に論文を書く様子がない。

 そこである日、とうとう湯川を怒鳴りつけてしまった。

「研究者たるもの、論文を書かずに何をやっとるか!」

 この叱咤(しった)激励がきっかけで、湯川がまとめたのが「中間子論」だ。後に(1949年に)、日本人初のノーベル賞につながった。

「これこそが私の最大の業績だ」。八木は語っていたという。