電気工学

交流系電力システムを独自開発 エジソン退け世界主流に

ニコラ・テスラ Nikola Tesla
(1856年7月10日~1943年1月7日、電気工学、米国)

 電池のように、電気が常にプラスからマイナスへ一方向にだけ流れるのが「直流」。対して、家庭や工場に来ている電気のように、流れる方向や電圧が一定の周期で絶えず逆向きに変化するのが「交流」だ。

 日本の場合、同じ交流でも東日本は周波数50㎐(ヘルツ)、西日本は周波数60㎐と、新潟県・糸魚川~静岡県・富士川の地質構造線とほぼ同じラインで分かれている。これは明治時代に導入した交流発電機が、東京電燈(現東京電力)はドイツ製(50㎐)、大阪電燈(現関西電力)は米国製(60㎐)だったからだ。そのためで今では、北陸新幹線の電力も、高崎(東京電力50Hz)~長野(中部電力60Hz)~上越妙高(東北電力50Hz)~富山(北陸電力60Hz)と3回も切り替わる。

 電気を生み出す発電機はファラデーの法則(1831年)を基に、ピクシーやジーメンス、グラムらによって急速に改良、実用化が進められたが、いずれも直流での利用だった。これに対し1887年に交流での発電・送電システムを完成させて、今日の電力技術の基礎を築いたのがセルビア系の米国の技術者ニコラ・テスラだった。

 テスラはオーストリア帝国統治下クロアチア西部のセルビア人の村で生まれた。父はセルビア正教会の司祭で詩人、母は卵の泡立て器などの台所用品をいくつか発明するなどの才気ある、とても記憶のよい人だったという。2男3女の兄弟の下から2番目。テスラが5歳の時、神童と評された7歳上の兄が落馬して死亡した。テスラが馬を驚かせたのが原因とも言われており、それ以来、テスラはしばしば幻覚や精神の不調に悩まされるようになったという。

エジソンの論文読むため英語独学

 小中等学校に上がるとテスラは勉学に励み、独学でフランス語やドイツ語、イタリア語、ラテン語などを学習した。さらに、あこがれのエジソンの論文を読むために英語も勉強し、数学や物理学にも興味をもって取り組んだ。おかげで学業の成績もよく、1年早く高校に入学できた。ところが高校3学年のときにコレラのために9カ月間も入院し、幾度か生死の境をさまよった。

 テスラは電気工学を学ぶために奨学金を得て、1875年にオーストラリアのグラーツ工科大学に入学した。1年目は真面目に全講義に出席した。2年目のある講義で「グラム発電機」を見せられ、交流を直流に変換する「整流子」の接点で火花が起きているのを目にした。テスラは「電気エネルギーがロスしている」と指摘し、担当の教授と議論となった。その経験が後の「誘導モーター」の発明につながる。が、奨学金は2年で切れてしまい、テスラはギャンブルに手を出し、講義にも出なくなった。そして、1878年12月に大学を中退してしまった。

 その後、テスラはスロベニアで就職したが1879年4月に父が亡くなり、叔父などの支援でチェコのプラハ大学に入り直すも、それも辞めて1881年1月にハンガリーのブタペスト電話交換所の電気技師の職を得た。翌1882年にはパリにある米国ゼネラル・エレクトリック社のフランス法人コンチネンタル・エジソン社の技師となり、技量が認められて1年後にストラスブールに転勤した。この間、私的な時間を使ってモーターの開発を続け、1882年には交流による回転磁界で動力を得る二相式「誘導モーター」を完成させた。ストラスブールの投資家らの前でも誘導モーターを披露したが、誰からも、何の反応もなかったという。

 交流による新モーターの実用化を目指したテスラは、会社の上司の誘いもあって渡米を決意した。叔父らの資金援助も得て1884年5月に米国行きの船に乗った。ところが、船中で所持金や旅行チケット、荷物のほとんどを盗まれ、船員らの反乱に巻き込まれて危うく海に突き落とされそうにもなった。

 出港から数週間後、やっとの思いでニューヨークに到着したテスラは即日、エジソンの会社の求人に応募して採用され、さっそく遠洋定期船の照明や配電設備の修理点検を任された。たちまちそれらを修理して、エジソンを驚かせた。

 テスラはその後、エジソンの事業主体となる直流系電力システムの部品製造や修理などのいろいろな仕事をこなしたが、当時37歳のエジソンは、9歳下の青年テスラを、端(はな)からバカにしていたようだ。

 ある日、エジソンは「私の直流ダイナモ(発電機)をうまく改良できたら、ご褒美に5万ドルを支払うよ」とテスラに持ちかけた。するとテスラは難なく、エジソンの予想以上にうまくやってしまった。ところがエジソンは「君はアメリカン・ジョークを理解していないようだ」と笑って言って、お金を支払わなかった。テスラは心底、傷ついたという。

 こうした嫌なこともあったが、何よりもテスラが目指していたのは、エジソンの直流系に比べて発電や送電のロスが少ない、交流系電力システムの実現だった。エジソンも考えを変える気はなかったようなので、テスラは1年足らずでエジソンの下を辞め、1885年1月に自分の会社「テスラ電灯製作所」を作り独立した。

 当初は、本業とは関係のない日雇いの仕事をするなどして食いつないだ。1887年4月にテスラは新しく「テスラ・エレクトリック社」を立ち上げ、併設の研究所で多相誘導モーター・発電機を製作した。同年10月に、一連の交流系の発電・送電システムの特許も出願した。

 また翌1888年5月には、コロンビア大学にあった米国電気学会(AIEE、現IEEE)で自著の論文「交流モーターと変圧器の新しいシステム」の公表と一部の実演を行い、直流よりも有利な、交流による発電から送電・変圧に至る新システムについて説明した。

 この時テスラの発表に強い興味を示したのが、鉄道車両の空気ブレーキなどを発明した実業家、ジョージ・ウェスティングハウスだった。当時彼は米国の電力供給システムの構築について意欲を燃やし、白熱灯の開発や電力事業の展開がエジソンの独壇場となっていることに強い対抗意識をもっていたのだ。テスラは交流系電力システムを、現金計7万5000ドルと誘導モーター1馬力あたり2.5ドルの特許使用料の条件で、ウェスティングハウスに売却した。

 さらに、テスラとウェスティングハウスは1893年5月の米大陸発見400周年記念「シカゴ世界博覧会」の電気配電や設備をすべてテスラの交流発電機(60㎐)や電力システムで構築し、世界の注目と評価を得た。同博覧会での成功は、シカゴ地域の消費量の3倍ものエネルギーをテスラの電力システムが安全に供給できることの実証となった。

 同プロジェクトには、エジソンとその関連企業も名乗りを上げたが、退けられた。その結果、米国内ではテスラ側の交流系電力システムが主体となり、電力網の整備が進められることになった。

〈メモ〉テスラはこうした交流系の電力システムのほかに、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器(テスラコイル、1891年)や電波送信機(無線トランスミッター、1893年)を発明し、無線通信で音声を送受信する技術(ラジオ)や無線操縦の技術(ラジコン)などの基礎も築いた。「テスラ」の名前は電磁気学での磁束密度の単位に残されている。また近年は、米国の電気自動車メーカーの社名にもなっている。

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