生物学

高率270倍の自作顕微鏡で ヒトの精子、歯垢の微生物など発見

レーウェンフック, アントニ・ファン(1632~1723年、生物学、オランダ)

 世の中には、他人が驚くような趣味をもつ人がいる。「微生物学の父」とも称されるオランダの生物学者のアントニ・ファン・レーウェンフックもそうだ。元々が織物屋ながら、自分で作った顕微鏡で何でもかんでも観察するのが好きな趣味人だった。

 オランダ西部の町デルフトに生まれたレーウェンフックは、5歳のときにバスケット(かご)作り職人の父が亡くなり、弁護士の叔父の家で育てられた。16歳でアムステルダムの織物屋の店員となり、21歳で故郷の町で自分の店を持ち結婚した。その後は公会堂の運営管理人や土地の測量士、貿易ワインの計量官などを務めた。

画家フェルメールとも友人

 なおレーウェンフックは同郷の画家ヨハネス・フェルメールと同じ年齢の友人で、自らも絵のモデルとなっているほか、1675年(43歳)のときには、亡くなったフェルメールの遺産管財人ともなっている。

 さて、レーウェンフックの趣味のきっかけは織物屋時代に、生地の品定めに虫眼鏡を使い、糸を数えたり繊維の質を確かめたりしたことだ。そのうちに仕事の空いた時間に自分でレンズを削り磨き、ガラスを溶かして高倍率のレンズを作る技術も身に着けた。そして作り上げたのが、直径約1㎜の球面レンズを使った倍率約270倍の単レンズ顕微鏡だった。

 顕微鏡は1590年に初めて、オランダの眼鏡屋のヤンセン父子によって2枚の凸レンズを利用したものが発明された。さらにその父子の近所にいた眼鏡職人リッペルスハイも顕微鏡のほかに、1608年には最初の望遠鏡を製作したといわれる。初期の顕微鏡は単に珍しい器具でしかなかったが、その後、顕微鏡は徐々に改良されて倍率も30~40倍ほどにアップし、生物学的な観察にも使われるようになった。1658年にはオランダの医師スワンメルダムがヒトの赤血球を発見したほか、1660年にはイタリアの医師マルピーギがカエルの肺で毛細血管を発見した。

ロバート・フックに刺激され観察スケッチ

 一気に顕微鏡の価値を高めたのがロンドン王立協会(1660年設立)の物理学者ロバート・フックだった。フックは倍率50倍ほどの複式顕微鏡を自作し、コルクの「細胞」やノミやシラミなどの姿を観察した。その118枚の詳細なスケッチ集『顕微鏡図譜(ミクログラフィア)』を1665年に出版し、たちまち国内外でベストセラーとなった。

 レーウェンフックもフックの本を見て、感銘を受けたらしい。それまでは高倍率の自分の顕微鏡で身の回りの物を見て楽しんでいたが、それらを詳しく観察しスケッチをするようになった。ところがそれらの発表の場がなかったため、地元デルフトの解剖学者や政治家が1673年にそれぞれ、レーウェンフックを紹介する手紙をロンドン王立協会とフックに送った。それがきっかけで、レーウェンフックは観察記録を王立協会に手紙で報告した。その手紙は日常的なオランダ語で書かれていたため、フックが訳して協会発行の機関誌に掲載した。

 レーウェンフックの1673年の最初の報告にはミツバチの口の部分や、シラミ、真菌が記載されていた。その後1674年には湖水の中で泳ぐ微生物や、ウナギの尾部の毛細血管内を流動する赤血球の観察も報告した。さらにヒトやイヌの精子の発見(1677年)、酵母の発見(1680年)のほか、生まれて一度も歯みがきをしたことない男の歯垢にうごめく微生物も描画し示した。これらの観察報告をフックはラテン語に訳して、1695年にレーウェンフック全集『Arcana naturœ detecta(自然の秘密発見)』として発刊した。

 こうしたレーウェンフックの描く微小な生物世界やその顕微鏡の威力を知って、王立協会や諸国の科学者たちは驚いた。しかし頑固なレーウェンフックは顕微鏡に触ることを許さず、顕微鏡の作り方も一切教えなかった。そのため、有名になったレーウェンフックのところには、顕微鏡をのぞかせてもらうためだけに、英国の女王やロシアのピョートル大帝などが訪れたという。

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