生物学

ビーグル号に乗った進化論 「起源」はガラパゴスにあった

ダーウィン,チャールズ・ロバート(1809~1882年、博物学・地質学・生物学、英国)

 1835年9月、南米大陸の西海岸部を測量調査してきたイギリス海軍の帆船「ビーグル号」が、東太平洋の赤道上にあるガラパゴス諸島に到着した。乗っていたのが青年博物学者、チャールズ・ダーウィンだ。4年前にケンブリッジ大学を卒業し、知人の博物学者の紹介で乗船したものだった。

 ビーグル号は1831年12月に英国を出港し、西回りで南米大陸から豪州大陸、アフリカ大陸南端の喜望峰を回って英国に帰港する。その途中で、ガラパゴス諸島にダーウィンらは約1カ月間滞在した。

 「ガラパゴス」というのは、スペイン語で「カメ」という意味だ。その名の通り、ガラパゴス諸島には巨大なゾウガメがいた。しかも、よくよく観察すると、互いの島がきわめて近い距離なのに、島ごとにゾウガメの姿が少しずつ違っていた。さらにある種の小鳥もくちばしの長さや形が島によって異なり、トカゲのイグアナの場合は、同じ島でも海岸近くにすむものと、内陸部にすむものとで形態に差があったという。

 ビーグル号は1836年10月、5年にわたる世界一周の航海を終えて英国に帰港した。ダーウィンが持ち帰った珍しい動植物や化石など収集品の数々は多くの専門家の興味を呼んだ。その後出版した『ビーグル号航海の動物学』(全5巻)や『ビーグル号航海の地質学』(全3巻)も大好評だった。

 そうした中、ダーウィンが一貫して考え続けていたのが、ガラパゴス諸島での動物種の変異のことだった。「ガラパゴスの動物たちは、それぞれに共通の祖先をもっていた。それが長い年月、別々の島で代々生活しているうちに、今の姿に変異(進化)したのではないだろうか」。

 その進化の仕組みとして行き着いたのが「島などの自然に適したものだけが生き残り、適さないものは自然に淘汰(とうた)される」といった「自然選択説」だった。

 この自説を地球上の他の動植物にも広げ、壮大な本を書こうと計画を進めていたところ、他にも同じ考えをもつ研究者がいることを知った。ダーウィンは彼との共同論文を1858年7月に学会で発表すると、急いで要約をまとめて翌年11月に『種の起源』を出版した。

 ダーウィンの進化論はたちまちベストセラーとなったが、当時の宗教観や倫理観からは多くの反発を受けた。ダーウィンの「人類はサルと同じ祖先から分岐した」との主張に対し、何よりも聖書では「神がすべての生物を創造し、その姿は不変だ」とされているからだ。反対者の中にはフランスの昆虫学者ファーブルもいたという。

 このころからダーウィンはよく体調を崩すようになったが、さいわい友人の生物学者トマス・ハクスリー(1825~1895年)らが宗教界との論争の先頭に立ってくれた。さらにドイツや米国などの生物学者らもダーウィンの進化論の普及に努め、次第に支持は世界に広がり浸透していった。

 ダーウィンはほかにフジツボの分類や、サンゴ礁の形成と分化、ハトの品種改良、ミミズによる土壌形成の研究でも業績を残したという。

 2022年はダーウィンの死後140年。ヒトは、どれほど進化したのだろう?