バーバラ・マクリントック Barbara McClintock
(1902年6月16日~1992年9月2日、遺伝学、米国)
「植物と親密になるのが喜びなの」
トウモロコシが大好きなアメリカ人女性がいた。といってもポップコーンやお菓子の「〇〇コーン」のことではない。あくまでも、研究対象としてのトウモロコシだ。
彼女の名はバーバラ・マクリントック。20代からトウモロコシの研究一筋の遺伝学者で、「動く遺伝子」(転移因子、トランスポゾン)の発見から約30年後、81歳のとき(1983年)にノーベル医学生理学賞を受賞した。同部門での女性の受賞は初めてのことだった。
「植物をずっと見守り、親密になることが私の大きな喜び。トウモロコシの言いたいことは、今すぐにも説明できますよ」。 自分の研究について語る彼女の言葉には、共同研究者も助手も弟子もなく、たった一人ですべてを成しとげたことへの自信があふれていた。
ところが受賞の一報を受けた時は「あらまぁ、そうなの!?」と、そっけなく言って、いつものようにトウモロコシ畑にでかけてしまったという。
一人で何でもできる子
マクリントックは米国コネチカット州に、医師の父、ピアノ教師の母との間に2姉1弟の3番目に生まれた。小さい頃から「一人で何でもできる子」だったという。コーネル大学農学部で植物学を専攻したマクリントックは、大学院では初め植物育種学を学びたいと思ったが、女性であるために受け入れられず、細胞遺伝学を専攻した。
大学院では、染色体を酢酸カーミン溶液で染色する技術を開発し、トウモロコシが10対の染色体をもつことを顕微鏡で確認した。1927年春に博士号を取得後は、相同染色体の減数分裂時の「組み換え」や「交差」などの現象を確認したほか、どのような遺伝子が共に連鎖して遺伝するかも明らかにした。さらに、主な形質の遺伝子が染色体のどこに位置するかを示す染色体地図もトウモロコシで初めて作った。
こうした研究成果を上げつつも、マクリントックにはコーネル大学での正規職員のポストはなかったことから、他大学の研究員や助手などを転々とした。ドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所にも1933年に研究留学したが、ナチズムの台頭などのために、わずか半年で帰国した。
大学辞して民間研究所へ
1936年からはミズーリ大学で助教の職を得て、1939年にはアメリカ遺伝学会の副会長に選ばれた。ところが間もなく、研究に対する持ち前の気骨さから大学の所属長と喧嘩し、1940年の夏(38歳)に大学を辞めてしまった。その後、友人の伝手(つて)で、1942年からニューヨーク州ロングアイランドにある民間のカーネギー研究所遺伝学部門(のちの「コールド・スプリング・ハーバー研究所」)の研究員となり、トウモロコシの研究に本腰を入れて取りかかった。
注目したのはトウモロコシ粒の斑点
注目したのは、トウモロコシの粒に斑点(はんてん)のあるものと、ないものが混じる現象だ。マクリントックは小さなトウモロコシ畑で、春に種をまき、夏に交配、秋に収穫、冬に顕微鏡を覗いて染色体を分析するといった作業を毎年、根気よく続けた。その結果分かったのが、ある種の遺伝子が1つの染色体から他の染色体へと転移して、斑点のある粒を出現させたり、出現させなかったりしていたことだ。
マクリントックはこの動く遺伝子を「転移因子」その現象を「トランスポジション」と名付けて、1951年に自身の研究所が主催するシンポジウムで発表した。が当時は、デオキシリボ核酸(DNA)が遺伝子の本体であることが分かりかけていた時期で、ジェームズ・ワトソンらが「DNAの二重らせん構造」を解明し発表したのもその2年後(1953年)だった。そのため「遺伝子が染色体を移動する」と言われても、誰もその重要性に気づかず、論文も難解だったという。
遺伝子導入やベクター(運び屋)にも応用
ところが1960年代後半から1970年代前半にかけて、バクテリアや酵母で「動く遺伝子」が発見されるようになり、それらは「トランスポゾン」と名付けられた。マクリントックが発見したトウモロコシの粒の斑点をつくる遺伝子座もトランスポゾンの一種であることが明らかにされ、晴れて1983年のノーベル医学生理学賞の単独受賞となった。「苦節十年」。マクリントックの場合は「苦節60年」のことだった。
動く遺伝子(トランスポゾン)は、その後の遺伝子工学の発展に伴い、外来の遺伝子を目的とする生物の遺伝子に新たに付加する「遺伝子導入」や、その運び役「ベクター」などに応用されている。