遺伝学

生物科目が最悪も エンドウマメで遺伝の法則発見 

メンデル,グレゴール・ヨハン(1822~1884年、生物学、オーストリア帝国<現チェコ>)

 世界的に有名な遺伝学者も、試験では生物学が苦手だったようだ。「遺伝学の祖」と呼ばれるグレゴール・ヨハン・メンデルがそうだ。

 メンデルは、オーストリア帝国(現チェコ)の小さな村の貧しい果樹農家に生まれた。苦学して高等学校を卒業し、修道院の修道士になった。修道院では学術研究や教育にも力を入れていたことから、メンデルも28歳の時に教師の資格試験を受けた。

 ところが、ほとんどの教科の点数はよかったが、生物学と地質学が最悪の成績だったために落ちてしまった。とくに生物学のほ乳類の分類に関する問題では、答えがめちゃくちゃで「まるで小学生の解答だ」と、試験官に酷評されたという。

 それでもめげずに、メンデルはウィーン大学に2年間留学して物理学や数学、植物学などを学んだ。修道院にもどってからは、高等実技学校で自然科学を教える一方、1853年から1868年までエンドウマメの交配実験に取り組んだ。

 エンドウマメを選んだのは長い品種改良の歴史があり、人為交配が行いやすいからだった。メンデルは当時の34 品種すべての試験栽培を2年間行い、その中から安定的な 22 品種を選んで本試験を行った。観察したのはエンドウマメの種子やサヤ、花びら、茎の構造に関係する七つの特徴で、計2万8000株以上のエンドウを栽培したという。

 そのうち1856年から1862年までの6年間にわたる実験結果を、1865年に「植物の雑種に関する実験」と題する論文にまとめ、地元の自然研究会で口頭発表した。翌1866年にはその論文の掲載誌が全国の大学や図書館にも送られた。その論文の内容が後に「メンデルの法則(優性・分離・独立の法則)」と呼ばれる研究成果だったが、口頭発表後の35年間は、遺伝学の表舞台に登場することはなかった。

 埋もれてしまった理由は、メンデルが修道士だったことへの偏見もあるが、何よりも、実験結果を生物学としては新しい数学的な手法でまとめたことが、周囲にまったく理解されなかったためだ。さらに当時はダーウィンの進化論が注目されていたので、遺伝学の基礎的なメンデルの研究は見向きもされなかったのだという。

 そして1900年にようやく、オランダのド・フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマクの3人がそれぞれ独自にメンデルの論文の重要性に気づき、世に再び紹介されたことは、人類にとっても大きな幸運だった。

 エンドウマメの実験後のメンデルは、キク科の多年草「ミヤマコウゾリナ」に材料を変えて新たな交配実験に取り組んだが、実験のやりにくい植物だったために目を悪くしてしまった。さらに修道院長に選ばれ、自ら税金問題に対する反対闘争にも立ち上がるなどして、遺伝学の研究を続けることができなくなった。

 「いずれ世界が研究成果を認めてくれる」。そう、メンデルは話していたという。