フレデリック・ウイリアム・ハーシェル Frederick William Herschel
(1738年11月15日~1822年8月25日、天文学、ドイツ)
音楽家から世界的な天文学者になった人がいる。1781年に天王星を発見したドイツ出身の英国人、フレデリック・ウイリアム・ハーシェルだ。
バイオリンやオルガン演奏、作曲などで活躍
北ドイツの地方都市に生まれたハーシェルは15歳のときに、父と長兄が勤める近衛連隊の楽団にオーボエ奏者として入団した。自国の君主がイギリスの君主も兼ねていたことから、楽団がイギリスに赴任し、それに伴いハーシェルも17歳のときに渡英した。現地ではオーボエのほかにバイオリンやオルガンの奏者となり、さらに音楽教師、市民オーケストラの団長や指揮者も務めた。作曲家としても24の交響曲、数多くの協奏曲や教会音楽などを作曲したという。
楽しみで天文観測
その一方でハーシェルは、父親が天文好きだった影響を受けて、28歳のころから自分で小さな反射望遠鏡を購入し、天体観測を楽しむようになった。やがて彼はさらに大きな望遠鏡が欲しくなったが、高価すぎて買えない。そこで自分でレンズと鏡を磨く技術を十数年かけて会得し、1781 年に当時としては最も優れた望遠鏡を作りだした。
自作の反射望遠鏡で天王星発見
製作したのは口径6インチ(15㎝)の「7フィート反射望遠鏡」で、主鏡は銅とスズの合金「青銅」の鋳物を研磨し、マホガニー製の経緯台を架台とした。その望遠鏡を使って同年3月13日に、英国南西部の地方都市バースの自宅で発見したのが天王星だ。
初めハーシェルは「すい星か」と思ったというが、輪郭がはっきりしており、どうにもすい星とは違う。しかも計算すると、太陽から土星までの距離の、さらに約2倍にある位置を、ほぼ円軌道を描いて公転していた。そんな遠い距離にある惑星はそれまで知られておらず、結局、新しい惑星と判明したことで、太陽系の大きさが一挙に2倍に広がることになったのだ。
国王付天文官に
こうした功績でハーシェルは王立協会会員に推薦され、翌1782年にはジョージ3世から国王付天文官に任命された。天文学に専念することになり、天文官として多くの業績も残した。星の計数観測では「望遠鏡の視野内に星が多く見える方向ほど星が遠くまで分布する」と仮定し、恒星が凸レンズ状に分布するような宇宙像(現在で言う「天の川銀河」)を描き出した。また多数の二重星が「連星」であることを突き止めたほか、2300個以上におよぶ星雲や星団を見つけてカタログ化したのもハーシェルだ。
製作最大は40フィート反射望遠鏡
さらに望遠鏡の製作数は約400台にのぼり、1789 年には中でも最大となる口径122㎝、焦点距離12mの「40フィート反射望遠鏡」を製作した。あまりに巨大すぎて操作しにくかったというが、それでも、その望遠鏡で土星の衛星ミマスとエンケラドス、さらに天王星の衛星チタニアとオベロンの4衛星を発見した。こうしたハーシェルの天体観測の助手は妹のカロラインが務め、彼女自身が多くの彗星を発見した。後に、ハーシェルの息子のジョンも著名な天文学者になった。
〈メモ〉ハーシェルの業績は天文学者として、星や銀河のことだけではない。実は、1800年には「赤外線」も発見していた。彼は太陽光をプリズムに透過させ、分光によって赤色光と紫色光の温度がどう変わるかを調べるために、三つの温度計のうち一つを赤色光、二つ目を紫色光にあてた。さらに三つ目は室温を計るために赤色光の少し外側に置いて温度の変化をみたところ、三つ目の温度計が一番高かった。赤色光の外側にも、目には見えない光線が当たっていたのだ。これが「赤外線」だった。