天文学

テニス後に見えた「緯度変化の周期性」 画期的「Z項」の発見に

木村 栄(ひさし)(1870~1943年、天文学、日本)

 肉体的な疲労は睡眠で取れる。精神的な疲労はスポーツをすることで取れるという。

 それを知ってか知らずか、自分たちの観測データの信頼性について半年あまり悩んでいた「水沢臨時緯度観測所」(現岩手県奥州市、国立天文台「水沢VLBI観測所」)の木村栄(ひさし)所長は、1901(明治34)年秋のある日、所員とのテニスを終えて研究室に戻り、改めて諸外国とのデータを見比べていて「あっ!」と気が付いた。

 「緯度の観測そのものに、鉛直方向の周期性が見落とされているのではないか」

 そう思い、世界の観測所(緯度φ、緯度λ)で共通して使われている「緯度の変化(⊿Φ)と極位置(X、Y)の関係式」(※)に、新たに一つの項を付け加えると、観測結果をうまく説明できることが分かった。これを論文にまとめ(1902年1月)、追加が認められたのが「Z項」だった。

 (※)⊿φ=Xcosλ+Ysinλ+Z

 木村が取り組んでいたのが、万国測地学協会が主導する共同緯度観測事業だ。発端は、18世紀前半に地球が赤道部のふくらんだ回転楕円体をしていることが分かり、スイスの数学者オイラーが「そうした形状の地球が剛体であれば、地軸は約304日周期で変化(極運動)し緯度も変化する」と1765年に予言したことだ。

 その後1884年にドイツの天文学者フリードリッヒ・キュストナーが緯度変化を発見し、さらに1891年に米国の天文学者セス・チャンドラーが、200年前の古い星の観測データなどから地軸が約427日の周期で極運動をしていることを発見した。オイラーとの極運動の周期の違いは「地球が剛体ではなく弾性体であるためだ」と同年、米国の天文学者サイモン・ニューカムは説明した。

 こうしたことから「緯度の共同観測によって地球の極(地軸)の位置を精密に求めよう」という国際事業が、1895年にドイツ・ベルリンで開かれた万国測地学協会第11回総会で決議された。そのための観測所として、北緯39度8分上にある日本の水沢や米国、ロシア、イタリアなどの6地点が選ばれ、1899年から観測が始められた。

 国際的な観測所を日本に置き、観測を日本人に任せることには当初、西欧諸国から懐疑的な意見が出され、ドイツから技師派遣の提案もあった。これに対して、自らが国際測地学協会の委員でもある東京帝国大学理科大学教授の田中館愛橘(たなかだて・あいきつ)博士や、たまたまドイツ留学中の地震学者の大森房吉博士が「あくまでも日本人の手による観測を」と主張し認められた。背景には諸外国の、江戸末期の伊能忠敬や明治初期にフランスの指導で培った日本の高い測地測量技術への理解があったという。

 このようにして「水沢臨時緯度観測所」が1899年12月、木村(29歳)が初代所長兼技師となり開所した。木村は金沢市に生まれ、旧制四高(現金沢大学)から東京帝国大学理科大学星学科に進み天文学を専攻した。大学院では、田中舘博士の下で全国の地磁気の測量や緯度観測を行った。ドイツでの万国測地学協会総会にも田中館博士と共に参加し、自らが日本での観測所の開設や観測業務などの準備を進めていた。

 同観測所で木村は中野徳郎技師とともに、観測初日となる1899年12月16日から、毎夜の観測データをドイツ・ポツダムにある国際事業の中央局に送った。中央局では世界6地点から集まった観測データを「最小二乗法」で解析し、日々の極運動による地軸の移動の変化を調べた。その変化は角度で0.3秒程度、距離で10mほどの小さな量だ。

 そして1年あまりが過ぎたある日、中央局のT・H・アルブレヒト局長から、日本の測地学委員会あてに手紙が届いた。「6地点の観測データのうち、水沢の観測値だけがとくに誤差が大きく違っている。これは観測者の技能の低さか、装置の故障によるもので、日本の観測成績は50点だ」という内容だった。

 驚いた木村らはさっそく、観測に使っている望遠鏡「眼視天頂儀」などの装置や観測方法を隅々まで点検した。さらに恩師の田中館博士の助言を仰ぎ、観測の手順や方法などを見直したが不備はなかった。「どこに問題があるのか……」と悩みつつも毎夜の観測を続けながら、半年あまりが過ぎてしまった。

 そして発見したのが「Z項」だった。きっかけとして6地点の観測データから見えてきたのは、冬に緯度が大きくなり、逆に夏に小さくなる現象だった。詳しく計算してみると、その変化量は角度0.03秒ほどで、すべての観測地点が冬になると約1m北極に近づき、夏になると逆に約1m遠ざかるというものだった。こうした周年変化は、関係式に「Z項」を加えることで、観測地点ごとのデータのばらつきが小さくなった。そして、むしろ水沢の観測データが一番正確なことが明らかになり、中央局長は謝ったという。

 「Z項の発見」で木村は、1904年に理学博士の学位を授与され、1911年には第一回学士院恩賜賞を受賞した。「水沢臨時緯度観測所」も名前から「臨時」が取れて1920年に「水沢緯度観測所」となった。またドイツが第一次世界大戦(1914~1918年)での敗戦国となったため、1922年から同観測所が国際緯度観測事業の中央局を担当し、木村が1935年まで中央局長を務めた。さらに木村は1936年に日本人初の王立天文学会ゴールドメダル、1937年には第一回文化勲章の受章者となった。

 そうした「Z項」による栄誉の陰で、木村が一貫して追究していたのが「Z項」の起源の解明だった。「Z項」の値は-0.05秒~+0.05秒の間をほぼ1年周期で変動するが、どのような地球(あるいは宇宙)の現象が起源となって表れているのか、まったくの謎だった。

 木村は気象や地震、地盤傾斜、大気の光屈折などの観測のほか、緯度観測の終夜への延長、南半球での緯度観測などにも着手・継続して、それらの効果を調べたが、結局は「Z項」の起源は不明のまま木村も生涯を閉じた。

 「Z項」の起源が解明されたのは1970年、同観測所の後輩研究者、若生康二郎によるものだった。若生は、従来のように地球を変形のない剛体として「Z項」を考えるのではなく、地球の内部を、弾性体としてのマントル、さらに深部の鉄などが溶けた「流体核」、そして中心部の「固体内核」からなる構造体と考え、その流体効果が半年周期の変異として「Z項」に表れたものであることを示し結論づけた。

 〈メモ〉宮沢賢治の童話『風野又三郎』(『風の又三郎』の先駆作品)には、「水沢の臨時緯度観測所」や「木村博士」が登場する。主人公の又三郎は、同観測所について「あそこを通るとレコード(風速の記録など)でも何でもみな外国の方に知れるようになる」と国際施設としての特徴を説明。さらに「木村博士は瘠(や)せて眼のキョロキョロした人」と形容し「それにテニスが非常にうまいんだよ」と述べて、弱いテニス相手を気の毒に思い、博士がサーブをした時にイタズラをしたことなどを、又三郎が自慢気に語っている。同観測所には賢治自身がたびたび訪問しており、その経験を基に、賢治独自の想像力や宇宙的な世界観を広げていったとも言われる。