天文学

惑星運行の3法則を発見 だ円軌道に示された太陽中心説

ケプラー,ヨハネス(1571~1630年、天文学・数学、ドイツ)

 人類は1960~70年代の米国のアポロ計画で月面着陸を果たした。次の宇宙旅行の目標は火星だという。ところが400年ほど前に「火星は征服した。次は木星、土星だ」と豪語していた人がいる。ドイツの天文学者、ヨハネス・ケプラーだ。

 家が貧しかったケプラーは聖職者になることを目指して、テュービンゲン大学の神学科に入学した。教養課程で学んだのが天文学。当時の宗教界では地球を中心に宇宙が回っているとする地球中心説(天動説)の宇宙観が主流だったが、ケプラーは新たなコペルニクスの太陽中心説(地動説)に刺激を受けた。

 「天文学に対する興味が目覚めたのは…」とケプラーが後に語ったのは、幼いころに母と見た1577年の大すい星、父と見た1580年の月食がきっかけだったという。

 次第に天文学に傾倒していくケプラーだったが、天文学といっても当時はまだ天体望遠鏡が発明されておらず、すべてが肉眼による天体観測だった。しかも天文学としての科学は未発達で、あくまでも占星術の一分野でしかなかったようだ。

 卒業後ケプラーは教師の職を得て、プロテスタント系のグラーツ大学で数学と天文学を教える一方で、天文学の研究に没頭する日々を送った。1596年には、自らの研究成果である『宇宙の神秘』を発表して、コペルニクスの太陽中心説を全面的に支持した。これを読んだガリレオ・ガリレイから賛同の手紙を受け取ったという。

 さらにケプラーはこの時期に結婚して、新しい家庭と好きな研究生活を送ろうとしたのも束の間。当地グラーツを治めていた大公が、1598年にプロテスタントの聖職者と教師の退去命令を出したことから、ケプラーは仕事を失ってしまった。

 そんな時、デンマークの有名な天文学者ティコ・ブラーエ(1546~1601)がチェコのプラハ天文台に赴任して研究活動を行っていることを知った。ブラーエは国王の援助でデンマーク東部の島に建てた天文台で約20年間、火星や木星、土星などの惑星の位置観測を行い、当時としてはかなり精度の高い記録を残した。その彼がプラハ天文台長になったことから、ケプラーはすぐに彼のもとへ赴き、助手として研究に参加した。

 ところが働き始めて1年半後の1601年にブラーエが亡くなった。ブラーエは臨終の遺言で、膨大な観測資料の整理をケプラーに委託した。ケプラーはブラーエ後任の宮廷付占星術師として仕えながら、ブラーエの残した観測データをもとに研究を続けた。

 そして、地球から見える天体のうちでも、特に複雑な動きをしている火星に着目して発見したのが「ケプラーの法則」と呼ばれる重要な天文学上の3法則だ。

〈1〉火星は太陽の周囲をだ円軌道を描いて回っている。

〈2〉太陽を公転する火星が一定時間に描く面積は常に同じだ。

〈3〉惑星の公転周期の2乗は、太陽からの距離の3乗に比例する。

 このうち第一、第二法則は1609年発刊の自著『新天文学』で発表した。これは火星の運行が法則に支配されていることを明らかにしたものだが、他の惑星にも当てはまることが分かった。第三法則は他の惑星データを含めて考察し、10年後の1619年発刊の『宇宙の調和』に収録した。この第三法則は後にニュートンの万有引力の法則の重要な根拠となった。

 またケプラーはルドルフ2世(1552~1612年)の勅命を受けて、天文表「ルドルフ表」を1627年に作成した。天文表は諸惑星の位置推算表を主とする天文データブックで、暦や占星術などに利用された。過去にも天文表は作成されているがルドルフ表の惑星推定位置はケプラーの法則に基づき計算されており、1551年から使われていた「プロイセン表」より30倍も精度が高く、太陽中心説の優位性を決定的に示したとされる。

 ケプラーは自然の法則を発見し、天文学を科学に押し上げたが、生活は貧乏だったという。ケプラーが4歳の時に、世界的に流行した天然痘にかかり、その後遺症で視力が低下し、手にも障害が残った。天然痘では1611年に、先妻と3人の子のうち一人も亡くした。保護者であったルドルフ2世が亡くなると、ケプラーはプラハを離れた。さらに1618年に宗教的な争いから始まった「三十年戦争」(~1648年)の戦禍を避けながら各地を転々として、不遇な生涯を終えたという。