物理学

リンゴの落下で「万有引力の法則」着想 20年後に結実した「プリンキピア」

ニュートン,アイザック(1643~1727年、数学・物理学、英国)

 リンゴが木から落ちるのを見て「万有引力の法則」の発見のヒントをつかんだのが英国の物理学者、アイザック・ニュートンだ。

 リンゴに働く引力(あるいは重力)の発見ではない。ニュートンのひらめきは「リンゴは地球の引力によって真っ直ぐに落ちるのに、月はなぜ落ちて来ないのか。いや、月にも地球の引力は働き、月の引力もまた地球を引いている。月は地球の周囲を回りながら、つねに落下しているのだ。これは太陽を公転している惑星も同じだ」ということらしい。つまり「質量をもつすべての物体(万物)は引力をもち、互いに引き合っている」との着想だ。

 この時ニュートンは23歳。ロンドンで伝染病のペストが流行し、通っていたケンブリッジ大学(トリニティ・カレッジ)が閉鎖されたため、1665年6月から67年3月までに2度ほど、故郷のウールスソープに帰っていたのだ。この田舎での1年半の滞在中に、万有引力の法則のほか数学の微分積分法、分光プリズムによる光学の研究といった「ニュートンの三大業績」の糸口を得たといわれる。

 その後大学に戻ったニュートンは、1669年に26歳で学内最高位のルーカス教授となった。もっぱら自らの「光学」の研究成果について講義したが、内容が斬新すぎて学生たちは着いて行けず、出席者ゼロのときもしばしばあったという。ニュートンは微分積分法についての論文は1671年に刊行していたが、万有引力の法則や物体の運動などの研究については、40歳をすぎても何ら発表していなかった。

 公表を踏み切らせたのが、友人の天文学者エドモンド・ハレー(1656~1742年)だった。

 1684年の夏のある日、ハレーがニュートンを訪ね「王立協会のロバート・フック(1635~1703年)が、ケプラーの惑星運動についての法則を証明したと言っているが、どうにもウソっぽい。君はどう思うか」と尋ねた。するとニュートンは「私はペスト騒ぎの時に、とっくに証明しているよ」と、机にしまっていたメモを探したが、見当たらない。そこでニュートンは同年11月に、改めて「回転している物体の運動について」と題する証明の論文を王立協会に提出した。

 これを読んだハレーがニュートンや王立協会に出版を強く勧め、ニュートンも寝食も忘れるほど執筆に集中して取り組んだ。ところが原稿が完成し、いざ出版という段階になって、王立協会が資金難から出版費用を出せなくなってしまった。そこでハレーが資金を工面し支援したという。

 このほか、万有引力の法則発見の先取権を主張するフックからの批判もあったが、ようやく1687年7月に『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』(全3巻)の出版にこぎつけた。同著はニュートン力学体系の集大成となるもので、近代科学の最も重要な著作の一つにも挙げられる。

 やがて教授職を辞し学究生活からも離れたニュートンは下院議員(一期)を務め、その後1699年には造幣局長官、1703年には王立協会の会長にもなり、両職とも84歳で死ぬまで続けた。その一方で、錬金術や聖書の科学的解明にも取り組んだという。

 ニュートンは、アインシュタインが自室にマクスウェルファラデーとともに肖像写真を飾っていたほど、偉大な業績を挙げた物理学者だったが、性格的には気難しくて怒りっぽく、とても猜疑心の強い、女嫌いだったとも言われる。議論においても、意見の合わぬ者には反論の余地すら与えないほどに論破し、叩き潰したという。