ロバート・ボイル Robert Boyle(1627年1月25日~1691年12月31日、物理学・化学、英国)
ボイルの法則「空気の体積と圧力は反比例する」
例えば、容器の中の空気の圧力を、温度を一定にしながら2倍にすると、空気の体積は2分の1に圧縮される。逆に、圧力を2分の1にすると、体積は2倍にふくらむ。──この「空気の体積と圧力は反比例する」という法則を発見したのはアイルランドの科学者ロバート・ボイルだ。これが後に「ボイルの法則」と呼ばれようになった。
ボイルは、アイルランド南部で大地主の、伯爵家の14番目の末っ子に生まれた。8歳のときに4歳上の兄と一緒に3年間、英国ロンドンの名門イートン・カレッジで学んだ。
海外留学旅行でガリレイにも師事
1638年から2人はフランス人家庭教師と共に、当時の裕福な貴族では慣例の海外留学旅行(グランドツアー)に出掛けて、6年間にわたってフランスやスイス、イタリアなどに滞在しながら、社交界の一員になるべく教養を身に着け見聞を広げた。イタリアではフィレンツェに住むガリレオ・ガリレイに師事したという。
科学的な研究に興味をもったボイルは1644年に帰国後、姉夫婦を頼ってロンドンに住み、そこで実験好きの科学者集団「ロンドン理学協会」(「見えざる大学」)の一員となった。間もなく父親の土地を相続し、一生を科学の実験や研究に取り組むつもりでアイルランドに移ったが、実験器具もそろわない田舎の不便さや、落馬事故に遭って体調を崩したことなどから、1654年から生活と研究の場をオックスフォードに構えた。ボイルはそこでも、地元「オックスフォード理学協会」の会員となり交流した。
自ら「トリチェリの実験」
ボイルが科学者として重視したのは自ら実験や観察を行い、そこから真実を見つけようとする姿勢だった。ガリレイの弟子トリチェリが1643年に行った大気圧に関する実験〈トリチェリの実験:水銀を満たした長さ1mのガラス管を倒立させ、自重で下がった水銀がガラス管の上部に真空を作り出すことを示した実験〉も、改めて自分でもやってみた。2階まで届くほどの長さ約3mのガラス管に水銀を入れて実験をしたところ、ガラス管が破れて水銀が飛び散ってしまい、集めるのに苦労したこともあったという。
ロバート・フックを助手に真空実験
同様にボイルは、ドイツのオットー・フォン・ゲーリケが世界初の「真空ポンプ」を製作し、後に「マクデブルクの半球の実験」と呼ばれる空気圧の実験を1654年にドイツのレーゲンスブルク市で行ったことを知るや、工作上手なロバート・フックを1655年から助手として雇い、4年後により高性能のポンプを完成させた。ボイルはこのポンプで真空にしたガラス容器の中に、さまざまな物を入れて試した。その実験によって「真空中では、熱した湯がたちまちのうちに沸騰すること」や「真空中では、どんな物体も同じ速度で落下すること」などを実証した。
出版の付録が「ボイルの法則」
これらの実験成果をまとめたのが著作『空気のばねと効果に関する自然学-機械学の新実験』(1660年)で、内容を補って第2版(1662年)を出版し、その付録として「ボイルの法則」を発表したとされる。
ボイルが法則を発見した実験は、一端を閉じたU字形のガラス管内に空気を水銀柱で閉じ込め、ガラス管の開口側の水銀柱の高さを測ることで、空気の圧力と体積の関係を調べたもので、1660年には行っていた。その結果をボイルは、オックスフォード理学協会での会合でも報告していたらしい。
ロイヤル・ソサエティ(王立協会)
同理学協会やロンドンの「見えざる大学」などの多くの民間科学サークルは、1660年に世界最初の学会「ロイヤル・ソサエティ(王立協会)」として統合され、1662年にチャールズ2世の勅許を得て正式に「王立」として発足した。
ボイルも設立協議会の委員として尽力し、12人の創設者フェローの一人に選ばれた。1680年には王立協会の会長に推挙されたが、これを辞退した。王立協会ではニュートンも1672年から会員となっており、ボイルも錬金術に興味をもっていたことから、互いに文通し情報交換していたという。
〈メモ〉ボイルの法則(1662年):温度一定の条件下では、気体の体積と圧力は反比例する。シャルルの法則(1787年):圧力一定の条件下では、気体の体積と温度は比例する。これらをまとめたのが「ボイル=シャルルの法則(気体の体積は圧力に反比例し、温度に比例する)」だ。