化学

見つけた最多の6元素 貢献一番はファラデーの発見

デービー,ハンフリー(1778~1829年、化学、英国)

 「容姿がイケて、話も上手」となれば、女性たちには大人気だ。23歳の若き王立研究所員ハンフリー・デービーの公開講演には、毎回多くの貴婦人たちが詰めかけたという。

 そんなイケメン講師のデービーは、英国南西端の港町ペンザンスの木彫職人の家に生まれた。下に4人の兄弟姉妹もいたことから生活は貧しかったが、母の養父だった医師がデービーの聡明さに気づいて、私立学校で教育を受けさせた。デービー本人も記憶力がよく、いろいろな本からの知識の吸収も早かったらしい。

 デービーは16歳のときに父が亡くなり、町で病院を営む外科医のもとに弟子として奉公に出された。デービーは病院の薬局で化学や薬学を学び、化学実験にも取り組んだ。別の医師や研究者たちと知り合い、さらに、たまたま町に保養に来ていた都会の大学生(実はジェームズ・ワットの息子グレゴリー)とも出会うなどして、いろいろな科学知識を教えられた。これらをきっかけに、デービーは毎朝2時間、自分から計画的に勉強するようになった。

 デービーは1798年10月に、知り合いの医師が設立した医学気体研究所の助手に採用された。その研究所は人工的に製造した気体を医療に応用することを目的としたもので、デービーはいろいろな実験の指揮を任された。そして彼が1年もたたずに証明したのが、笑気ガス(亜酸化窒素、N₂

 笑気ガスは、化学者プリーストリーが1772年に発見した気体だ。吸い込んでみると、めまいを感じて酒に酔ったような気分になったことから当時は、パーティの気分の盛り上げなどに使われたりしていた。デービーが笑気ガスを吸い込んでみると、狂ったように自分から踊り出し、痛みも感じなくなったという。

 研究所で作った笑気ガスは、ワット親子や著名な詩人たちが定期的に吸引しに来くるほどの人気(中毒ぶり)だった。ジェームズ・ワットは、デービーの吸入実験のために、運搬可能なガス室を製作してやった。デービーはその実験結果を論文にまとめ1799年に出版した。

 なおデービーには、スウェーデンの化学者シェーレと同様に、すぐに薬品の匂いをかいだり、なめてみたりする悪癖があり、時には生命にかかわる危険な場面もあった。一酸化窒素(NO)を吸引する実験では、口中に硝酸(HNO₃)が発生し、粘膜を激しく損傷してしまった。一酸化炭素(CO)の吸引実験では死線をさまよった。外気を取り入れることで生気を取り戻したが、回復するまでに数時間を要した。それでも体がフラフラとなりながらも、自分で脈を取り「極めて速くなる」と実験ノートに記したというから、すごい根性(あまりの無謀さ)だ。

 デービーは、ちょうどそのころ(1799年に)設立した王立研究所の化学講演助手兼実験主任に請われて着任し、1801年4月に初登壇した公開講演会は毎回ご婦人方の人気が高まっていった。

 翌年にはデービーは正講演者に昇格し、新たな研究実験にも取り組んだ。自らの研究テーマとして関心を持ったのは、1800年にイタリアのアレッサンドロ・ボルタが発明した世界最初の電池「ボルタ電池」であり、さらにその電池を使って、英国の外科医アンソニー・カーライルと化学者ウィリアム・ニコルソン が初めて成功した水の電気分解だった。

 デービーは化合物の電気分解法の確立に取り組んだ。1807年には水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)と水酸化カリウムから、それぞれナトリウムとカリウムの単体を得ることに成功した。さらに同じ手法でカルシウム、ストロンチウム、バリウム、マグネシウムも次々と発見した。一人で6元素の発見は、科学者のうちでもデービーが最多だ。

 またデービーは1810年に、シェーレが1774年に二酸化マンガン(MnO₂) と塩酸 (HCl)を混ぜて作った「酸素を含んだ化合物」が実は間違いで「単体の元素」であることを証明し、それをギリシャ語で「緑」を意味する「クロリン」(Cl:塩素)と名付けた。さらにデービーは「塩酸」を電気分解しても「酸素」は得られないことを示し、フランスの化学者ラボアジェの「酸は酸素の化合物だ」との定義を覆した。

 デービーは1812年、三塩化窒素(NCl₃)を使った実験で自己反応熱による爆発が起きて眼を負傷し、視力を損なってしまった。そのために秘書として雇ったのが、後に電磁誘導の法則などで有名になる若きマイケル・ファラデーだった。

 製本屋で働いていたファラデーは当時、何度もデービーの講演を聴いて、300ページにも及ぶ講演ノートを作っていた。それを添えて「将来は科学の道を歩みたい」との手紙をデービーに送っていた。それを覚えていたデービーが声をかけてくれたもので、秘書となったファラデーは、欠員が出た研究所の化学助手として改めて1813年3月から採用された。

 その後デービーは裕福な未亡人と結婚し、1813年10月から、フランスを始めとするヨーロッパに「新婚旅行」に出た。同行したのがファラデーで、1815年に帰国するまで助手兼従者として働いた。帰国後デービーは、炭鉱事故防止のために、坑内で使える安全ランプ(デービー灯)を発明した。この功績で1819年に、デービーに平民で最高位の称号「準男爵」が与えられた。翌年デービーは王立協会の会長となった。

 デービーの50年の生涯で、最大の発見は弟子のファラデーを見出したことだと言われている。