アメデオ・アボガドロ Lorenzo Romano Amedeo Carlo Avogadro
(1776年8月9日~1856年7月9日、化学、イタリア)
死後に認められた業績
ノーベル賞は必ず、生存している人に贈られる。ところが遺伝研究のメンデルのように、死んでから偉大な業績が認められた人も少なくない。化学の分野では、イタリアのアメデオ・アボガドロがその一人だ。
代々が弁護士の家系に生まれたアボガドロは、大学で法律と哲学を専攻し、20歳で弁護士になった。ところが、間もなく物理学と数学に興味をもち、自分で研究を始めた。そして27歳(1803年)のときに電気工学に関する論文を書き、1809年にベルッチェッリ王立大学の物理学教授になった。そこで1811年にフランスの論文誌に仮説として発表したのが、後に認められて「アボガドロの法則」と呼ばれる大発見だ。
今では化学の教科書には必ず登場するほどの重要なこの法則は「どんな気体も同じ温度、同じ圧力の下では、同じ体積中に同じ数だけの分子が含まれる」というものだ。さらに気体の分子は2個の原子からできていることも、アボガドロは論文で提唱していた。
「同じ体積には同じ数の分子」「気体分子は2個の原子」
当時は英国の化学者ドルトンが、物質のこれ以上分割できない単位として「原子」を考え出したばかりで、水素や酸素、窒素、塩素などの気体は元素が単体として存在しているものと思われていた。
それに対して、アボガドロの「分子説」は化学反応をうまく説明し、原子や分子の質量も計算できる画期的な法則だが、その重要性は半世紀近く、学界からほとんど無視されていた。その原因には、アボガドロの論文が法律文書のようで難解だったためとも言われている。
同じイタリアの化学者が再評価
アボガドロを再評価したのは、同じイタリアの化学者カニッツァーロという30代の大学教授だ。アボガドロの仮説を利用すると、化学のいろいろな現象がすべて都合よく説明できることが分かり、彼は1858年に発表した論文で紹介した。
国際会議で論文写し配る
さらにカニッツァーロは、1860年にドイツで開かれた「原子量と分子量の標準化」についての国際化学会議でもアボガドロの重要性を主張したが、賛同は得られなかった。そこで彼の友人が機転を利かせ、会議の最終日にアボガドロの論文の写しを約140人の出席者全員に配った。これを読んだヨーロッパ各国の化学者たちは、初めてアボガドロの仮説を知り驚いた。まさに「目からうろこが落ちる思いだった」とある人は語ったという。
ところが残念なことに、アボガドロは注目される4年前に亡くなっていたのだ。