工学

画期的な高効率エンジン発明も 英国へ渡航途中に謎の死

ディーゼル,ルドルフ(1858~1913年、機械工学、ドイツ)

 自動車や鉄道の機関車、船舶、戦車などに広く使われている強力で、熱効率の高い「ディーゼル・エンジン」を発明したのは、ドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルだ。

 このエンジンは、ピストンによってシリンダ内の空気を圧縮した時の発熱で、シリンダ内に噴射した液体燃料が自ら発火する「圧縮着火方式」の燃焼機関だ。これによって生じた急激な燃焼ガスの膨張で、ピストンを強く押し出し、動力を得る仕組みだ。

 その急激なガス膨張(爆発)の圧力が高い(従って爆発音も大きい)ので、それだけ頑丈にエンジンを作らなければならず、エンジン本体も重くなるが、燃料としてガソリンよりも引火しにくくて安価な軽油や灯油、重油のほか、サラダ油やピーナッツ油などと幅広い油種が使えることも利点だ。

 奨学金を得てミュンヘン工科大学に進学したディーゼルは、1880年1月に最高の成績で卒業し、かつての教授カール・フォン・リンデが興した冷凍・製氷会社に就職した。そのパリ工場の設計と建設を担当し、1年後に工場長となった。その後妻子を得て、1890年に同社の研究開発部門の責任者としてベルリンに戻った。

 熱効率と燃費をテーマに研究していたディーゼルは間もなく、アンモニアの蒸気を使った蒸気機関の開発に乗り出した。ところがその試験運転中に爆発事故を起こし、ディーゼルは目などを負傷して何か月も入院してしまった。

 この「痛い」経験を経て、ディーゼルは「蒸気機関に代わる新たな燃焼機関を」と考え、まとめたのが新型エンジンのアイディアで、1892年2月に「内燃機関の作業方法と設計」との題で特許を取得した。さらに翌1893年に「既知の蒸気機関と内燃機関を置換する合理的熱機関の理論と構築」と題する論文を発表した。

 その後、高圧縮比を実現する製造技術が確立されたことで、1897年 8月にようやく実働する新型エンジンの初型機(プロトタイプ)が製作された。新型エンジンはたちまち世界中で評判となり、各国で競い合って作られるようになった。

 新型エンジンは、当初は「オイル・エンジン」と呼ばれていた。ディーゼルは内気な性格で、彼は「自分の名前を付けるなんて」と尻込みしていたらしいが、結局は妻のアイディアに従って「ディーゼル・エンジン」と名付け、それが一般に広まったという。

 ディーゼルはその後の特許権を巡る争いや、企業との特許交渉などの商売上の心労も重なって健康を害してしまった。ようやく回復しかけたディーゼルは、1913年9月29日の夕方、ベルギーのアントワープから英国行きの郵便蒸気船に乗った。ロンドンでの新しいディーゼル・エンジン工場の起工式に出席し、英国海軍と潜水艦用のエンジン製作について話し合うためだった。

 ところが翌朝、ディーゼルは蒸気船から行方不明になってしまったのだ。前日に乗船した彼は、船上で夕食をとった後「翌朝6時15分に起こしてくれ」と言って、午後10時ごろ自室に戻った。しかし翌朝に彼の部屋は無人で、船上のどこにも姿はなかった。部屋のベッドには使った形跡がなく、寝巻もそのまま畳んであったが、彼の腕時計は外してベッドの左に置かれていた。

 さらに船室には彼の日記帳が置いてあった。最後の日付は行方不明となった30日で、自殺を思わせる文面はなく、片隅に鉛筆で小さく十字架が書いてあった。ところが彼の帽子とオーバーが、船の後甲板の手摺の下にきちんと畳まれて、置かれているのが発見された。

 その13日後、別のオランダ船の乗組員が、ノルウェーに近い北海の海上で、男性の死体を発見した。その死体は「腐敗がひどく、人相もわからず、船に引き上げることもできなかった」ため、衣服からピルケースや財布、IDカード、ポケットナイフ、眼鏡ケースなどの遺品を回収して、死体は海に沈めた。それらの遺品が家族に届けられ、ディーゼルの息子が「父のものだ」と確認したという。

 当時は第一次世界大戦(1914-8年)の前夜。ドイツ帝国には新型技術を英国に渡すことに反対する意見もあった。

 ディーゼルの死は果たして自殺、事故死あるいは他殺だったのか。今も謎のままだ。