アレクサンダー・グラハム・ベル Alexander Graham Bell(1847年3月3日~1922年8月2日、電気工学・音響学・音声生理学、米国)
電話機発明の‟一番乗り”
早いもの勝ち──科学の世界でも「一番乗り」が重要だ。同じような発見や発明をしても、タッチの差で勝ったり負けたりすることがある。実用的な電話機の発明者として知られるスコットランド生まれの米国人、ベルの場合もそうだった。
送話器と受話器
電話機には、話す側の「送話器」と聞く側の「受話器」がある。基本的な原理となったのが、電磁石のそばに置いたうすい鉄板に向かって声を発すると、その音声によって鉄板が震動して電磁石に電流が流れるという仕組み。この発生した電流信号を電話線で相手方の電磁石に送り、音声として相手に聞こえるようにしたのが「送話器」。逆に、相手方の電流信号をこちら側の電磁石で受けて、聞こえるようにしたのが「受話器」だ。
2時間差で特許取得(1876年)
このような電磁式電話機をベルが考案し、1876年2月14日に特許を申請した。ところが、米国の技術者エライシャ・グレイも、まったく同じ日に同じような電話機の特許を申請していたのだ。「だれが一番乗りか」をめぐり審議されたが、結局ベルが約2時間早く申請していたことで、3月3日にベルの特許が認められた。
ベル電話会社を設立し本格製造普及
特許取得の後、さっそくベルは一週間後の3月10日に試作した電話機で通話実験を行い、さらに同年5~11月には米国百年記念のフィラデルフィア万国博覧会にも出品して、国際的な注目を集めた。さらに翌1877年にはベル電話会社を設立し、電話の本格製造、普及に乗り出した。
ベル宅で通話体験した2人の日本人
ベルの名は世界中に広がった、日本にはさっそく、ベルの発明特許の翌年(1877年)に電話機が輸入された。というのも、前年3月の通話実験の直後、たまたま米国に留学していた2人の日本人、伊沢修二(のちの東京音楽学校長)と金子堅太郎(のちの司法大臣)が実験成功のうわさを聞いてベル宅を訪ね、自分たちも電話で通話をさせてもらった。
それがきっかけで、いち早く電話機が日本に伝わったのだ。日本での電話の実用化は1888年ごろから進み、東京・横浜間では1890年に電話線が開通した。
〈メモ〉実用電話を発明したベルだが、実はベルが特許を取得するよりも15年ほど前の1861年10月、ドイツの学校教師フィリップ・ライス(1834~1874年)がフランクフルト物理学会で電話機(「ライスの電話」、テレフォン)を公開した。基本原理はベルと同じ。というより、ボストン大学やろう学校で音響学や音声生理学の教授をしていたベルが、音声を電気的に伝送するライスの発明を知り、独自の工夫で、より実用的な電話機を作ったというのが技術史の流れのようだ。
またこれとは別に、米国に移住したイタリア生まれのアントニオ・メウッチ(1808~1889年)も1871年12月に特許保護願を申請したが、74年に保護願の延長料金を支払えずに失効した。しかし米国議会は2002年6月、メウッチが「電話の最初の発明者」として公的に認めた。
なお、ベルの母と妻は聴覚障害者で、ベル本人はろう者のための教育と研究を生涯の目的としていた。三重苦で知られるヘレン・ケラー女史に家庭教師のサリバン先生を紹介したのもベルだった。発明者としてのベルは、水中翼船や航空機などにも広く関心をもち研究していたという。