ゲオルク・ジーモン・オーム Georg Simon Ohm
(1789年3月16日~1854年7月6日、物理学、ドイツ)
電気単位のオーム
科学の世界では、人名が単位になったものが数多くある。電気学の分野では電流の「アンペア(A)」、電圧の「ボルト(V)」、電気抵抗の「オーム(Ω)」などだ。
「アンペア」はフランスの物理学者アンペール、「ボルト」はイタリアの物理学者ボルタにちなんだもので、「オーム」はドイツの物理学者ゲオルク・ジーモン・オームの名前から付けられた。ただしオームの頭文字「O(オウ)」ではゼロと紛らわしいので、ギリシャ文字の「Ω」にしたという。
「オームの法則」王立協会が評価
さて人間のオームは「電流の強さは電圧に比例し、抵抗に反比例する」という、電流と電圧と電気抵抗の基本的な原理(オームの法則)を発見し、それに関する論文を1826年に発表したほか、1827年に出版した著書『数学的に取扱ったガルバニ電池』で詳しく述べた。
ところが「オームの法則」として評価されたのは、それから十数年後のことだった。しかもそれは自国ドイツではなく、ロンドンの王立協会がオームの業績を認めて1841年に科学界最高賞コプリ・メダルをオームに授与したことによってであった。さらにオームは翌年、王立協会の外国人会員にもなっている。
幼少期は父が家庭教師
オームの父は錠前師で、正規の学校教育は受けなかったが、独学でかなり高度な知識を身に着けていた。息子のオームと弟妹には父自らが数学や物理学、化学、哲学などを教えた。オームは11歳から15歳まで地元エアランゲン市のギムナジウム(中等学校)に通ったが、勉学で得られるものはほとんどなかったという。
オームは1805年にエアランゲン大学に入学したが、ダンスやアイススケートばかりに熱中して勉学を怠り、父の怒りを買った。そのため大学を辞めて、翌年9月にスイスの学校に数学教師として赴任した。
学校講師となり電磁気学の本格実験
その後1809年3月に教師を辞めて、2年間家庭教師をしながら自分で数学の研究を継続した。1811年4月にはエアランゲン大学に復帰して10月に博士号を取得した。卒業後は国内数校での数学・物理学教師を経て、1817年11月にケルン理工科学校の上級講師となり物理学を教えると同時に、学校の実験室を使って本格的な物理実験を始めた。
オームは、とくにデンマークの物理学者エルステッド(1777~1851年)による電磁気現象の発見(エルステッドの実験、1820年)に関心を持ち、電磁気学の実験を始めた。そして、ガルバニ電池を使って電流と電圧の関係を数学的に取扱う研究に着手した。その結果を1826年に論文に発表し、さらに一年間の有給休暇を取ってベルリンに行き、翌1827年に出版したのが『数学的に取扱ったガルバニ電池』だった。
ヘーゲル哲学思想の批判浴びる
「これで大学教授となり、研究に専念できるかも知れない」とオームは思ったそうだが、当時のドイツでは「思考によって自然法則を導く」というヘーゲル哲学が支配的だったために、オームの実験結果に基づく研究成果は逆に痛烈な批判を浴び、教師も辞めざるを得なくなったという。
貧困生活を強いられたオームだったが、その後、英国やフランスの科学者たちが彼の業績を高く評価したことから、ドイツもようやく偉大な科学者を認めなかった失敗に気がついた。オームは60歳のとき(1849年)にミュンヒェン大学の招請教授に任命され、1852年に同大学の実験物理の教授となったが、その2年後にオームは亡くなった。
〈メモ〉「オームの法則」については、実はオームの約45年も前に英国のヘンリー・キャベンディッシュ(1731~1810年)が最初に発見していた(1781年)。キャベンディッシュは電気ナマズの研究をきっかけに、ライデン瓶(びん)で発生させた電気を溶液中に流す実験を行い「オームの法則」を導いたものだが、彼はその発見を、他の研究結果と同様、存命中に公表しなかった。その発見が明らかとなったのは、ケンブリッジ大学のマクスウェル教授が1879年にキャベンディッシュの研究遺稿集を発刊してのことだった。