物理学

当時最強の「KS磁石鋼」発明 日本の金属工学をけん引

本多 光太郎(1870~1954年、物理学、日本)

 連日の実験に取り組んでいた弟子が、先生にたずねた。

「実験に疲れた時はどうしたらいいのでしょう?」

「本を読むといい」

「では本を読むのに疲れたら、どうしたらいいのでしょう?」

「その時は君、実験をしたらいい」

 また、ある日のこと。研究所の多くの人が一つの実験装置を使うため、なかなか順番が来ない弟子が言った。

「先生、実験結果が出るのはしばらく待って下さい」

「何を言うか、装置は夜から朝まで空いとるわい」

   ◇    ◇    ◇

 落語にも出て来そうな、この厳しく研究熱心な先生こそが、日本の金属工学を世界水準に引き上げ、後に「鉄の神様」「鉄鋼の父」と称された物理学者、本多光太郎だ。

 愛知県岡崎市の農家に生まれた本多は、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業して大学院に進み、田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ)教授や長岡半太郎教授の下で地球物理学や地磁気学などを学んだ。間もなくして「東北帝国大学理科大学」(現在の東北大学)の設立構想が立ち上がり、その教授に内定を受けた本多は、1907(明治40)年からドイツに留学した。

 本多は横浜港を4月17日に出港して、40余日後にフランス南岸のマルセイユに着き、パリを経由してドイツに入った。留学したのがゲッティンゲン大学のグスタフ・タンマン教授(Gustav Tamanmn、1861~1938年)の研究室で、ここで約20カ月間、金属工学に関する実験研究の指導を受けた。その間に東北帝大の開設が1年延びることになったため、本多もドイツ滞在を1年延期し、今度はベルリン大学のデュボア(H.DuBois、1863~1918年)教授の下に留学した。ここでの約14カ月間の研究生活中に、本多は43種の元素単体の磁性と温度変化を測定し、メンデレーエフの周期表と密接に関係していることなどを発見した。

 ドイツ留学中の本多が、いかに熱心に実験に取り組んでいたか。こんなことがあった。

 ベルリンに住んでいた留学生仲間が「ゲッティンゲン在住の日本人が亡くなった」との噂を耳にした。「これは大変だ。本多かも」と、彼は急いでゲッティンゲンの本多の下宿に駆け付けた。すると下宿屋のおばさんは笑って言った。「ドクターホンダは実験が忙し過ぎて、とても死ぬ暇もなさそうですよ。下宿には夜9時すぎでないと帰って来ないけどね」。彼は安心してベルリンに戻って行ったという。

 本多はドイツから帰国後、1911年2月に東北帝大理科大の物理学科教授となった。1916(大正5)年には学内に「臨時理化学研究所第二部」(後の鉄鋼研究所さらに金属材料研究所)が新設されて本多が研究主任を兼務し、同年、弟子の高木弘(ひろむ)とともに発明したのが「KS磁石鋼」だった。

 「KS」というのは研究資金を援助した「住友吉左衛門」の頭文字で、当時最強のタングステン磁石鋼と比べ保磁力が4倍も大きかった。実はそのタングステン磁石鋼のドイツからの輸入が、第一次世界大戦(1914-8年)の影響で途絶えたため、とくに日本の陸海軍の航空関係筋から本多に、新しい磁石鋼の開発が要請されていたのだ。

 本多らは国産タングステン鋼にコバルトを加えて性能を高め、さらに「高温焼き入れ」を工夫し、新たにクロムも添加するなどしてKS磁石鋼を実現した。その過程で高木はさまざまな元素と鉄を配合する特殊鋼作りを命じられたが、狭い部屋で一千数百度の温度での溶解作業を行う熱さに耐えられず、消防服を着て作業をやり切ったという。

 苦労の末に開発されたKS磁石鋼だったが、余りに磁力が強かったため、肝心の陸海軍では利用できなかった。さらに当時の日本の工業技術力では、他の用途にも広がらず、もっぱら欧米の電気機器に利用された。

 こうして14年間にわたり世界最強の永久磁石としてKS磁石鋼は君臨していたが、1931(昭和6)年に東京帝国大学の三島徳七研究室がKS磁石鋼の2倍の保磁力を有する「MK磁石鋼」(アルミニウム・ニッケル・コバルト系永久磁石〈アルニコ磁石〉)を開発した(1934年特許取得)。1931年6月に東北帝大総長となった本多と門下の研究者らは驚き、さらに負けじと、1934年にKS磁石鋼の3倍半の保磁力をもつ「新KS磁石鋼」を作り上げた。

 新KS磁石鋼は1938年には米ゼネラル・エレクトロニック社のアルニコ磁石に記録を破られるが、これらの磁石鋼の開発力は日本の金属工学研究・技術の発展につながった。

 本多は1937年の第一回文化勲章を受章した。さらに長岡半太郎、鈴木梅太郎と共に「理研(理化学研究所)の三太郎」とも称されている。