物理学

エネルギー放射の新法則 量子力学の基礎理論に

マックス・プランク Max Karl Ernst Ludwig Planck(1858年4月23日~1947年10月4日、物理学、ドイツ)

「白い色」は赤(セキ、あか)・橙(トウ、だいだい)・黄(オウ、き)・緑(リョク、みどり)・青(セイ・あお)・藍(ラン、あい)・紫(シ、むらさき)の7色すべての光を反射するから白く見える。「黒い色」は7色すべての光を吸収するから黒く見える。冬に黒っぽい衣服を着るのは、すべての光(=熱)を吸収するので暖かいからだ。反対に、暑い夏は白色が最適なのは、すべての光を反射して熱を吸収しないからだ。

「さて問題は……」と、ドイツの物理学者で、1892年にベルリン大学の正教授となったマックス・プランクは悩んでいた。

 黒い物体を熱して温度を上げていくと、その黒体に吸収されていたさまざまな波長(=色)の光が放射されてくる。鉄製のストーブをどんどん熱していったときのように、鉄の色は赤色から青、紫色へと変化し、よりエネルギーの高い光が放射されるようになる。

 それを表わす公式は、プランク以前の研究者によっても考えられていたが、どうにも実験結果とうまく合わない。数週間も集中して考え続けたプランクは、ある日突然、ひらめいた。

「光(あるいはエネルギー)は連続したものではなく、1個2個と数えられる粒なのだ!」

 そのエネルギーの粒をプランクは「量子」と呼び、1900年12月にエネルギーの放射に関する公式(のちの「プランクの法則」)を発表した。

 このプランクの「量子」と、アルバート・アインシュタインが1905年に発表した「光電効果」における「光量子」はともに、初めてエネルギーに関して用いた量子論の考え方で、20世紀に開花する量子力学の基礎となった。

 さらにプランクは、アインシュタインによる時間と空間に関する論文(1905年)をいち早く評価し、1908年に彼の理論に「(特殊)相対性理論」の名前をつけて広く科学界に紹介した。ところがプランクは、光電効果の「光量子」による説明については受け入れに慎重だったというから、不思議なものだ。

 ともあれ、量子論でのプランクの研究業績に対しては、1918年にノーベル物理学賞(アインシュタインにも1921年に同賞)が贈られた。が、その一方で、プランクは大きな戦争の渦に巻き込まれていたのだ。

プランクには2男2女の子供がいた。第一次世界大戦(1914-18年)が起きるとプランクは当初この戦争に賛同していたが、1916年5月に長男が戦死し、次男はフランスで捕虜になった。1917年と1919年には2人娘を出産の際に失った。

ユダヤ人追放でヒトラーに直談判

アインシュタインを1913年に、スイスの大学からベルリンの研究所に迎えていたプランクは1930年にカイザー・ヴィルヘルム協会会長となり、1933年に台頭したヒトラーのユダヤ人追放政策に反対した。ヒトラーにも直接面会して意見を述べたが、怒らせる結果に終わったという。

 そしてプランクが81歳のときに、第二次世界大戦(1939-45年)が勃発した。1人残った次男は1944年7月、ヒトラーに対する暗殺計画(1944年)に加わったとして逮捕され、翌年2月に処刑された。

 ベルリンでの空襲も激しくなり、プランク夫妻は地方に疎開した。地方にも戦火が及び、さらに他所へ避難しているときに米軍に救出され、戦争も終わった。「量子論の父」と称されるプランクに、ようやく訪れた平和も束の間、その2年後に人生の幕を閉じた。

〈メモ〉プランクが会長を務めた研究機関「カイザー・ヴィルヘルム(学術振興)協会」(1911年設立)は戦後、1946年9月に「マックス・プランク研究所」と改名し再建された。現在は傘下に、アインシュタインも所長を務めたマックス・プランク(元カイザー・ヴィルヘルム)物理学研究所など、ドイツ国内を主に84の独立した研究所を収める。

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